今日の授業と福本和夫

今日は金曜日なので、鶴見先生の授業が二つあるだけだ。木曜日に比べれば遥かに心に余裕が持てる気がする。それはともかく、今日の4限の授業は面白かった。発表のシーズンが去り、再び鶴見先生の講義の時期がやってきたわけだが、今日のテーマは福本和夫のセルフエディターシップについて。福本和夫といえば、20年代?に福本イズムで一世を風靡して、それ以来聞かなかったマルキシストだが、授業ではその後の福本について扱っていた。

福本イズムが世の中(社会主義運動世界)を席巻して、共産党の政治指導役員まで上り詰めた福本であったが、コミンテルンから日本近代の捉え方を批判され、共産党から排除されていく。通史的にはここで福本の時代は終わり、それ以降歴史の表舞台に出てくることは無いのだが、もちろんそこで人間的にも政治的にも、運動的にも死んだわけではなく、強い意志を持ったまま活動を続けていた。

コミンテルンの批判から来る党からの追放のときに、福本はそれまで自分を慕っていた人間から裏切られる。その後、警察に逮捕され、15年の獄中生活を送ることとなり、1942年に出所する。それからは、運動から手を引くことにし(少なくとも見かけ上は)、民俗学の世界に入ってくる。そこで、それまでの文献を中心とする理論至上主義から、実直な史料をもとにした考証的な態度へと学問の姿勢を変化させていく。しかし、それは一つには特高をはじめとする様々な戦時下の制約から逃れるためであり、またもう一つはそれまでの自分の理論を、考証的なデータから補強するためであった。つまり、福本は全くその思想を初期から変えていないのである。そのような状況下で終戦を迎える。

一貫した強烈な思想を持った福本は、戦後になって日本共産党に入党する。1945年12月から共産党は活動を始めていたが、福本が入党したのは5年後の1950年である。それまでなぜ何もしてこなかったのか。むしろ、その一貫した思想を戦後に生かすべく積極的に活動していくべきではなかろうかと疑問に思った。それを鶴見先生に尋ねてみると、実に面白い答えが返ってきた。

まず、戦後間もない共産党のリーダーは徳田球一である。彼は先述した、コミンテルンの福本批判のときに、福本から離れていった一人である。つまり、福本からすれば裏切り者である。これを党・徳田の立場から見れば、また違った答えが出てくる。戦前の共産党は一度、福本を異端として排除しているのである。それを戦後になってリーダーとして戴くとすれば、それは戦前の共産党の判断は間違いであったと認めることであり、徳田からすれば認められたものではない。ある意味でメンツの問題だが、決して軽い問題ではない。

そのため、徳田は福本の入党は認めるが、選挙での福本の立候補地を鳥取に定めた。鳥取は保守王国であり、万が一にも共産党が勝てる見込みが無い土地である。いかに福本の名が全国に知れ渡っているとはいえ、鳥取で勝つことは不可能である。共産党の状態を考えれば、一席でも多く議席を確保したいはずであり、福本をしかるべき場所で立候補させれば確実に一議席を手に入れられるというにもかかわらず、鳥取からの立候補に押さえた。これは先のメンツの問題が大きく影響しているという。

この辺りが実に面白い。人間的で面白いのだ。左翼といえば、右翼とは違った意味で人間を人間として扱わないことがたびたびある。前に鶴見先生の成城大での講演で聞いた偽装結婚の制度も、全く人格を無視した非人道的な制度であると思うが、革命の実現という大義の前に個人の生きる意味を問うこと自体が馬鹿げたこととされていたのだろう。人間を鉄の規律で縛る左翼からすれば、上の徳田の行動はいささかそれを逸脱したものではあるまいか。もちろん、人間らしい意味で。

この組織における個人の人間らしさというのが面白い。客観的に分析すれば確実に「正しい」答えが導きだせるはずなのに、例えばメンツであったり好き嫌いであったりといった判断基準で「誤った」判断を下してしまうのは人間の性である。人間は「誤る」からこそ、個人でありうるのだと思う。歴史という客観的な学問の中に、主観的な部分を考えるというのは興味深い、やっていて不思議な気分になる。

最近、主たる興味が制度などの非人格的な部分から、それを造った人間の方に向いてきた。客観的に働く制度よりも、客観性を意識した個人の主観を研究してみたいと思う。そのためにはやはり個人に注目すべきなのだろう。歴史は人間の活動の積み重ねなのだから、人間らしさがなければ面白くない。美しい理論よりも、人間臭い方が良い。それを意識しながら、もう一度修論を考えてみようと思う。