さすが元千円札

このところ、夏目漱石の作品を読み続けている。新年最初の本は「こころ」にしたし、2月は「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「草枕」を読んだ。今は「彼岸過迄」「行人」「明暗」を読んでいるところだ。さすが国語の教科書に載るような人物だと思う。最近の作家、といってもそれほど読んではいないが、例えば東野圭吾などの文章は読んでいて疲れない。ただ、読み終わった後の「読んだ〜」という楽しみに欠ける。そういう意味では、文豪は外れない。読了感を求めるならば、文豪を読めば良い。

吾輩は猫である」と「坊ちゃん」は中学生でも読めるくらいの文章として有名であるが、ちょっと難しいのではないかと思う。「坊ちゃん」はまだしも、「吾輩は猫である」は時代背景やあるいは人間関係をある程度考えられないと、読んでいて面白くないのではないか。大人になって読んでみて、別の角度から眺める事で面白さを再発見することも出来る。

「猫」で面白かったのは、次の一節だ。正確ではないが、「吾輩も日本の猫であるから、混成猫旅団を結成して、引っ掻いてやりたいものである」という部分。日露戦争に関する記述であるが、こういう見方もあるのかという感心と、混成猫旅団という猫のイメージと相反するような言葉の響きに笑った。日露戦争というと、元来負ければ日本の滅亡に関わる大事として、国民が一丸になって戦ったというイメージが自分の中では強いのだが、真面目一辺倒でもなかったのかもしれない。猫の視点から人間を見るというのは、確かに斬新な視点であった。

「坊ちゃん」に関していえば、本当に愛媛県民は「〜ぞな、もし」とあれほどいうのかというのが気にかかった。愛媛人の台詞のほとんどに「〜ぞな、もし」という語尾がついていたのである。確かに「坂の上の雲」においても同様の記述が見られたが、現代においてもそうなのであろうか。是非、そうあってもらいたいものだが、最近は方言の度が強いといわれる青森においても、若者は標準語に近い言葉を使うから、もしかしたら絶滅の危機に瀕しているかもしれない。手前勝手な話だが、実に残念に思う。

それから、道後温泉に関する記述が多い。主人公はほとんど毎日温泉に入りにいく。何も面白いところのない場所だと酷評しながらも、温泉だけはほめたたえている。今でも道後温泉は日本でも名高い温泉である。ちょっと言ってみたいが、少し遠い。なんとか大学院の研究と結びつけて旅することでも出来ないものだろうか。