「人はパンのみに生きるにあらず」

この前、宗教学のテストを受けに36号館に向かったら、1年次に語学で同じだった友人(?)に偶然出会った。大学で数少ない知り合いの1人だが、どうも昔から馬が合わないところがあるので、深く関わりを持つことは無かったが、別に嫌いなわけではない。偶然の出会いに驚き、ちょっと立ち話をした。もちろん話題はお互いに「お前今何してんの?」

向こうはどうやら留年した様子。盛んに体調不良を宣伝していたから、留年に対してかなり負い目があるのだろう。一時期「俺商社行くからさwww」と喧伝していたのを知っている自分に、ちょっと譲れないところを感じたのだとも思われる。「お前大学来てないんだって?」と言われたので素直に認めると、「進路どうするの?」というから「このまま大学院に進む」と答えた。

すると、まぁ半分わかっていたことではあるが、「出た!企業に全く必要とされない文系の院!」と来た。別に腹も立たなかった。ただ、残念だったのは風邪で声が出なかったことだ。出たらもっと・・・と思うと、声が出なくて良かったかもしれない。案外、他人の進路を安易に否定したがる人間というのは残念ながら存在するようだ。

確かに、彼のいうことにも一理ある。明らかに歴史学修士などは企業にとって必要ない。「歴史を知っています」それと仕事の何の関係があるのかといわれれば、何の関係もないだろう。高学歴ワーキングプアが問題になっている昨今、ありえないほど好意的に解釈すれば、そういった心配をしてくれたのかもわからない。ありえないが。

では、「企業のために生きているのか」それとも「生きるために企業に入るのか」。それを訊いてみたかった。さすがにこの状況で前者を選ぶ人間はいないと思う。小学生ではないが「なら企業が死ねと言ったら死ぬの?」という話になりかねない。とすれば後者が自然な答えであろうが、それはそれでどうなのだろうか。我々は生きていかなければならない。文明がどれほど発達しようとも、生存競争はなくならない。

しかし、せっかく考える葦として生まれた以上、「生きるために生きる」のではなく、「何かのために生きる」生き方をしてみたいものだ。そのために大学院に進む。企業に必要とされなくとも、自分の好きなことを好きなだけ出来る時期にやっておくこと。それが出来るのは今しかないのだ。大学に目的意識も無く、単純にモラトリアムあるいは学歴の獲得のために進んだ人間には理解できないことかもしれない。このあたりに彼への嫌悪感が強く表れているとしみじみ自覚する。

ただ・・・これもやはり大学院に進むことに対する不安感や疎外感から来ている感情かもしれないと思うと、言いようのない自己嫌悪に陥ってしまう。どれほど自己正当化しようとも、文系の大学院に進むことのリスクは高いのだ。そのリスクを「学生」という紋所で乗り切るのは少し厳しいかもしれない。これを克服するには、大学院に進んでよかったという実績を作り出す必要がある。今不安になるのは当たり前だ。就職活動で内定を貰った人も、「本当にこの企業でよかったのだろうか」と不安になることもあるだろう。それと同じことだ。

もっと賢く、強くなりたい。自分の選択に自信を持ちたい。それも他人から与えられるような自信ではなく、自分自身で持つことの出来る自信を。例えば、警察庁のキャリアということを自信(彼の場合は傲慢であったわけだけれども)にするのではなく、警察という仕事、官僚という仕事に対して誇りを持つような感じの自信を持つ。つまり、権威主義的であってはならないというわけだが、権威主義からの脱却はなかなか時間がかかりそうだ。

結局、不安の根拠は権威主義的であることだと思う。他人と比べて自分の優位を確立しようとする。だから、自分の優位が確立できないとなると、あるいは自分の方が下であるというような状況になると不安で仕方ないのだ。自分の中で評価が行われるのではなく、他者との相対評価でしかない。比べないこと、これは前も考えたが、あまりに難しい。どうしたら、そういった風になることが出来るのだろうか・・・