何も持っていない・・・?

山口の選挙ポスター(民主党)に「何も持っていない若者が明日の日本を創る」(日本の明日だったかもしれない)と書いてあった。これは果たしてどういう意味なのだろう。プラスに捉えるべきかマイナスに捉えるべきかすらよくわからないが、昨今の状況を見ていると格差社会のせいで「何も持っていない」ということなのだろうか。

選挙ポスターというのはどこの政党でもわかりにくくて困る。でかでかと候補者の顔写真が貼ってあって「頑張ります」だとか「政治に心を」だとか空想的な言葉が入っている。せいぜい共産党のポスターが主張がわかりやすいくらいだ。せめて横に政策を細かく談じた紙を貼っておいてもらいたい。多くの人は読まないが、真面目に政治を考えている人のために貼るべきではないか。

選挙カーもうるさくてたまらない。あの騒音がまたやってくるのかと思うと、永遠に選挙など来なければ良いのにと思ってしまう。名前だけ連呼して何の意味があるというのか、サブリミナル効果でも狙っているのか(正しいのかわからないが)と疑いたくもなるうるささだ。選挙活動なんてろくなものではない。官僚はダメだとかいうけれども、政治家の方が余程ダメじゃないかと言いたくなる。ちなみに、官僚はダメどころかとても頑張っていると思う。少なくとも官僚になるまでは。

さて、果たして若者は何も持っていないのだろうか。というか「持っている」若者は何を持っているのだろう。それがそもそもわからない。一番わかりやすいところで言えば、財産だろう。金で換算できる何かを持っているかどうか。となれば、若者が持っているとは少し考えがたい。しかし、「貧しい」のが大半というわけでもない。

「何も持っていない若者」を「財産の全く無い(少数派の)若者」と定義するならば、彼らが明日を作るというのはいささかおかしくなってくる。多数派の若者が明日を創るのではないのか。本当に意味が分からない。それでいてポスターの写真は力強い笑顔なのだから、皮肉の一つでも言ってみたくなる。そもそも、政治家が嫌いなのだなぁ・・・と実感する。

一人の時間が多いと、要らぬことまで頭が回ってしまう。そうやってストレスをため続けた人間が凶行に走るのだろうと考えると、少々危なっかしい。卒論に都合の良い資料が簡単に見つからないからといって、誰かに当たってはダメなのだ。幸いにして、今日は現実の人間ではなく、抽象的な「政治家」に当り散らしているわけであるが、これもいつか目の前の人間が対照となるかもしれないと考えると・・・気をつけよう。

早く卒論終わらないかなー終わらせないとなー・・・明日も頑張ろう。今日もある程度は頑張ったはずだ。