言葉と現実

この前の土日で介護等体験として特別支援学校に行ってきたわけですが、衝撃の体験となりました。言葉や文字に表してしまえば「それ当たり前じゃん?」と自分でもいいたくなるようなことばかりなのですが、やはり体験するのと考えるのとでは歴然たる差があるのだということを実感しました。

「障害者には優しくしましょう」だとか「障害者を差別するな」というスローガンは全ての人が現代人として生きている以上、当たり前のことなのですが、それを体験に基づいて発信している人はどれほどいるのでしょうか。時々「障害者は社会から排除するべきだ」などということを表立っていってしまう足りない人がいるわけですが、大半の人は心でどう思おうとも少なくとも言葉の上では優しいものです。

自分も社会的に弱い立場に置かれている人にはなるべく善意をもって接したいと思っています。「それは上から目線ではないか」ということはひとまず置いておくこととして、「助けるべきだ」というのは本心です。どんな人であれ、この世に生を受けた以上は人間として扱われるべきだとも思っています。

しかし、恐らくそこに自分が直接接することは想定されていないのです。自らが福祉施設なり特別支援学校なりに働きに出ることは考えていないのです。それを大前提として上のようなことを言っているのですから、社会で生きていく上でのスキルとしては問題は無いのでしょうが、内面的なことでは大いに問題があるといわざるを得ないのです。

これまで「障害者」というのは、自分にとって抽象的な存在でしかなかったのです。一人ひとりの人間ではなく、社会的弱者の集団としての「障害者」のイメージ、それが「障害者」であり、自分が「助けるべき」と考える存在だったのです。実に無責任な考え方であり、傲慢な考え方であったというべきでしょう。

イソップ童話だったでしょうか、ネズミたちが天敵である猫の首に鈴をつける話がありました。猫が接近してきていることを察知するために、猫の首に鈴をつけることを思いつきますが、果たしてそれを誰がやるのかという話です。当然、猫の首に鈴をつけにいくということは、命を失う可能性が高いわけです。だからその必要を感じていながら、誰も鈴をつけに行こうとしない。

自分はその無責任なネズミと同じです。「障害者を助けるべきだ」といいながら、それをやりたくないと思っている。誰か自分の見えない人が助けてあげれば良いと思っている。そのために少し税を多く納めることにも異論はありませんが、それは「金を払うから誰かやってくれ」といっているのと同じです。

これは戦争に対する考え方に似た部分があるように思います。日本は憲法によって自ら戦争を禁じているわけですが、近年それを改正し、戦争を認める憲法にしようという人がいます。自分も今後の世界の展開を考えたときに、それはやむをえない面もあると考えていますから、全てに賛成しないまでもその点をある程度改正すべきだと思っています。

つまり、一部の人の言葉を借りれば「戦争を出来る国にしよう」ということになるわけですが、そう主張している人は自らが戦地に赴く覚悟があるのでしょうか。今の日本には専門職としての自衛隊がありますから、「彼らに任せておけば良い」「それで給料を貰っているのだから当然だ」と考えて、自らを戦争の外に置こうとしていないでしょうか。

自分は、部分的とはいえ改憲を正しいとしている以上、戦争が起こりそこで必要とされれば戦地に向かわなければならないと思っています。そうでない限り軽々しく平和憲法改正などと言うべきではない。その覚悟が無い場合は、何としてもこの平和憲法を護持し、戦争を避けるあらゆる手段を講じるべきです。

話が少し逸れてしまいましたが、自分に関係の無い世界についてはいくらでも「正しい」ことを言うことができるということです。何かを主張したいのであれば、自らが現場に立つ覚悟をしなければならない。だから、自分は偉そうに積極的に「障害者を守ろう」などということは出来ないのです。自ら守る覚悟が無いのですから。

しかし、だからといって何もしないわけにはいきません。目の前で障害者が差別されていたら、それとは闘わなければなりません。それは人間としての義務であり、教職志望者としての責任です。積極的に受け入れることが出来なくても、少なくともマイナス方向への動きは止めること。それは主張とは関係ないところの話です。自分自身の話なのです。

介護等体験に、たった2日間ですが行ってみて、一番に感じられたことが「自分が現場に立てないこと」であるというのは問題であるかもしれませんが、重要な収穫であったように思います。そのことから逃げていくのではなく、それなりの責任の果たし方を考えることこそが必要なのです。現場に立てない自分が出来ることは何なのか、と。