自分に忠実であること

昨日の日記では、人生を図る尺度のほんの一部に考えを及ばせたが、自分に忠実に生きるとはどういうことなのかが自分で言っていてよくわからなかった。思うままに生きる。それは決して他人のことを考慮しないというわけではなく、本当に望むことを選ぶということだ。後悔の無い、誰に対しても胸を張って誇れる選択をこれまでいくつすることが出来ただろうか。

そう考えて思い浮かぶのは、「大学で文学部に入学した」ということだ。いまだに立身出世主義の根強い日本では就職を将来の進路として大学に入学する場合、文系であれば法学部や経済学部に人が集まる。その方が世間的に認められており、就職のときにも有利になるからだと思う。あるいは偏差値が他の学部に比べて高く、より高い学力が求められているからかもしれない。とにかく、文学部というのは法学部や経済学部に比べて「余裕のある」学部として見られがちだ。

特に男子の場合はそうだ。早稲田はそうでもないが、立教の文学部などは男女の比率が1:9だという。今思えば、実に惜しいことをしたと思わなくは無いが、男子に文学部はそれほど人気ではない。感覚的に考えても普通のことかもしれない。

中学や高校において歴史を教えているときによくある質問として「歴史は何の役に立つのですか?」というのがある。確かにそれは難しい問題で、直近の生活に歴史を生かすことは難しいだろう。それは哲学や倫理学にも同じことが言える。国語(古典を除く)、数学(四則演算レベル)、英語は日常生活における使いどころというのが見つけやすい。理科も世の中の発展に役立っているといえば、必要性を認めるのは難しくは無い。

ただし、社会科は、特に歴史はそれが分かりにくいのだ。学年に数人歴史マニアというのがいるが、彼らは勉強と言うよりも趣味に近い形で歴史に接している。歴史が単純に好きだから勉強するのだ。普段の生活で役に立つかどうかといったことは彼らには問題ではない。

それは自分にも同じことが言える。単純に歴史が好きだから、歴史に興味があるから文学部に進んだ。ただそれだけのことだ。もっと詳しく歴史を勉強したいという自分の望みに忠実に従った結果だからこそ、今でも文学部に進んだことは誇りに思っている。必要に迫られてではなく、自己に忠実に生きるという体験を自分の中で探すとすれば、このことが最も適切だろう。

「文学部なんて役に立たないよね」と仮に法学部の「優秀な」学生に言われても(そんなことを言われたことは無いが)、その矜持は全く揺らがないだろう。それは強さなのだ。やりたいことを見つけ、それを実行している自信はそのまま強さになる。

これ以外で自分の選択に誇りを持てる何かがあっただろうか。といって探してみるとなかなか見つからないので困る。自己に忠実に生きるとはどういうことなのか、抽象的にまとめ上げることは出来ないが、せめてもう少し自分の中に具体例を持っていたかった。まぁ考えてみれば、もし自分の中に十分なそういった具体例が存在していたら、今このようなことで悩むようなことも無かったのだろうが。

例えば、クラスのマドンナ(実に古い表現だが)を好きになったとして、どうしてもその人に自分の思いを伝えたいとする。しかし残念なことに、鏡という客観的な手段を通して自分を見直してみると、どうも釣り合いそうも無い、というよりも釣り合うはずも無い。そのような状況のときにどうするか。考えられる選択肢はいくつかあるが、ここでは3つほど挙げてみよう。

1つは、諦めて「妥協」することだ。「妥協」などとは本当に相手に対して失礼な表現であるのだが、要するに自分でも釣り合うと思える人を好きに「なる」ということだ。そういう場合は大抵相手のことを過小評価していたり見下していたりするのだが、結果としては「成功」となる可能性は最初に比べれば高い。ただし、思いを捨て切れなかったときや重大な決断を迫られたときにひどく後悔することになるかもしれない。

2つ目は、単純に諦めることだ。自分が傷つかないように、思いを心の底にしまいこんで保存する。そしていつかその思いが自然に消滅する日を、相手から自分にアプローチしてきたりしないだろうかなどという奇跡(世間ではそれを妄想と呼ぶ)を信じながら、ただただ待ち続ける。これもまた自分自身に対して誇れる選択であるはずが無い。

最期は、玉砕である。自分の気持ちに正直になって、釣り合うかどうか、あるいは付き合えるかどうかという結果など気にせずに自分の思いを伝えるだけ伝えることだ。もちろん、大概の場合は上手くいかず、その日の枕を湿らせることになるのだが、その後の人生を経たときにどう感じられるだろうか。確かに失敗した、しかし自分に出来ることはやったという誇りが持てはしないだろうか。何もしないでうつむいたり、妥協して後悔するよりもはるかに誇れる結果だと思う。

ただ、人間はそれほど強く生きることが出来ない。自分が確実に誇れることが今は上記の1つしか思い浮かばないのは、少なくとも自分に関してはそれを証明している。道は2つしかない。妥協して逃げて後悔するか、自分に忠実に進んで誇りを持つか。この2択であるならば誰もが後者を選ぶだろう。しかし、難しい。そもそも自分が本当に進みたい道がどこにあるのかすら分からない場合がほとんどなのだから、選択の権利すら与えられていないのかもしれない。

自分に誇れる選択をすること。他者に実力を衒うようなことがないこと。その両立は意識していないと難しいかもしれないが、そのためには結果だけで評価をしないことと比べないことが求められる。特に「比べない」というのは今後生きていくうえで、重要なテーマとなりそうだ。