自分探し?自分作り?

人間であろうと動物であろうと植物であろうと自身を守ろうとする精神を持っていることに関しては一致しているであろう。動植物の場合は精神というよりは本能といった方が良いかもしれないが、それならば人間も精神よりは本能的に自分を守ろうとしているといえる。だから、自分の身を守ること自体に関しては動植物と人間とに大した差は無い。

ただし、人間の場合、精神的に自分を守らなければならないというのが大きい。少なくとも日本で暮らしているならば身体的に危機にさらされることなどほとんどあったことではない。むしろ平均的かそれ以上の生活水準を保つ日本人が守るべきなのは精神的な自己なのだ。これは別に改めて言うまでも無いことだろう。

精神的な安定には、他者からの評価が密接に関連している。他者と一言で言っても、自分の周りにいる他者と大衆・社会としての他者の二種に分けるべきであろうが、人間が2人以上存在する場において他者からの評価を意識せずに生きていくことは非常に難しい。恐らく、自分を含めたほとんどの人間には不可能なのではないか。

身近な他者からの評価を上げるためには、普段の生活において「正しい」といえるだけの人間関係を築いておく必要がある。これは一朝一夕に築くことが出来るものではなく、長い年月を必要とするが、その崩壊は簡単である。あるいは評価する側の人間性やこちらが相手をどう評価しているかということも関わってくるために、全ての関係は個別性を持ち、それを追究することは難しい。

もう1つの他者評価である社会的評価に関して考えてみる。社会的評価というのは様々な種類に及ぶが、大半が権威主義的で階層的である。学歴、職歴、年収、資格の有無、血統、家柄、出身地・・・これらによる評価というのは同種の他の存在と比較することなく成立することは無い。必ず何かと比べて評価が決まるのだ。「東大なんだ、すごいね」という評価は東大が他の大学に比べて優秀とされているからこそ成立する評価であり、「年収1000万なんだ、すごいね」という評価は平均的な日本人の年収と比較して導き出されている。

このような権威主義的で階層的な社会的評価は、それが好意的であった場合、「社会に認められているんだ」という安心感を生みやすい。そしてその場合はまた自己の優秀性の証明となるので、これもまた安心感を生むことにつながっていく。大学や企業を選ぶときに、このような社会的評価を全く考慮することなく選択している人というのは極端に少ないのではないか。仮にそういった評価を意識していなくとも、「認められたい」という気持ちがないといえるだろうか。

これまでの例はあまりに極端であったため、見えやすいものであると同時に、反感を生みやすい。では、能力主義成果主義といったものはどうだろうか。これも社会的評価と同様に、他者との比較を基準として作られる評価であるといえる。それは能力主義成果主義ももともとは西洋の優勝劣敗の考え方に基づく合理主義に端を発していることを考えれば、当然のことだ。

このような社会的評価(能力主義成果主義を含む)を得られれば、「立派にやっている」ということが自らも確認でき、自信と精神的安定につながってゆく。それ自体は間違っているとはいいがたい。社会的評価が高いのはそれだけの理由があるからこそなのだ。

しかし、そういった受動的で相対的な社会的評価に基づく精神的安定というのは決して強固なものではない。むしろ、実に脆いものであるといえるし、社会的評価を主柱として安定を享受している人間は弱い。そして、人生の王道を生きているとは到底思えない。

先日、アメリカ大手金融機関のリーマン・ブラザーズが破綻した。聞くところによるとリーマンはアメリカで4番目の大手だったという。日本においても「外資系」としてエリート階層を形成する一翼を担っていた。社会的評価を十分すぎるほどに受けてきた企業であったのである。そこで働くことを誇りに思うことは正しいし、就職活動で内定を貰った学生は周りから驚かれたことだろう。

もし、ある人がリーマンで働くことを精神的安定の主柱として生きていたとしたら、今はどのような精神状態にあるのだろうか。もちろん、社員の優秀さを考慮すれば、再就職先を探すことなど全く苦ではないだろう。恐らくそうだろうが、ここでは仮にその人はリーマンから離れた後に財産も失い、無職であったとする。つまり、社会的評価を完全に失ってしまったことになり、精神的安定は一気に崩壊していくことになるだろう。

それは、精神的安定の根拠を完全に自分の外側に依拠していたからこその現象である。社会的評価は他者との競争、そしてその勝利の上に成り立つものだ。敗北した瞬間に全てを失う、そこに強さなど微塵も存在しない。「敗者」という自己評価から立ち直るには多くの時間を要するだろう。競争によって得られた評価は、敗北した瞬間に価値がなくなるのである。

また、階層的な評価は、敗者に対する蔑視を生みやすい。つまり、自己を高めることによってではなく、他者を下げることによって自己の安定を図ろうとするのだ。「より巨大な企業に勤めているから彼には勝っている」、「より偏差値の高い大学に入学したから彼女には勝っている」、「より年収があるから自分は優秀なんだ」という考え方。一度もそうした考えを持ったことの無い人間などいるのだろうか。人間関係を階層化し、その中で自分を上位に置くことによって安心感や優越感を得ようとする。

道徳の授業でいえば、それはとんでもない間違いであって、決してやってはならない評価の仕方である。ただ、歴史的に見て、人間が身分制度を作り、差別制度を設けてきたことを考えれば、階層化は精神的安定を獲得するために本能として備わっているのではないかとすら思えてくる。お互いを高めあうのではなく、貶めあうこと、そしてそれは身近な人には適用されにくく、見えない大勢に向かって適用されやすいため、見えにくい。

しかし、そういった階層化は結局は自分の弱さの証明以外の何物でもないのだ。自分に自信が持てないからこそ、外へとその根拠を求めていってしまう。自分で自分自身に正当で満足に足る評価を与えることが出来れば、比較対象として(そして主としてそれは自分より「劣っている」と考えている)の他者など必要ないのだ。

自分で自分を高く評価するというのは非常に難しい。数値で客観的に測ることが出来ず、専ら感情にその根拠を求めるために、自己満足との区別が難しいからだ。ただ、自己評価を高めるためには、自分に対して忠実でなければならない。そして、自分自身と競争しなければならない。「競争」というとイメージが悪いというならば、向上心を持つと言い換えても良い。結局は、本当の強さは自分自身を正しく理解し、その鍛錬に耐えることによってしか得られないのではないか。

長く文章を連ねてきたにも関わらず、結論がお粗末で情けなくなるほどだが、少なくとも他者との競争によってでは本質的な強さを手に入れることは出来ない。よく歴史上の偉人や大記録を達成したスポーツ選手などが「最大の相手は自分自身だ」ということがあるが、それは本当のことだと思う。自分自身との勝負を避け、他者との勝負(それは大抵自分に有利に設定されている)に逃げ込んだ人間に強さが宿るはずも無い。そういった意味で、自分はとても未熟な人間なのだと実感した。

最後に、自分を守る方法の例外として、「嘘をつく」というパターンがある。それは他人に対してのみならず、自分自身に対して嘘をつくという点で悪質であり、なかなか抜け出すことの出来ない泥沼である。ありもしない嘘をつくというのは、社会的評価に飢えている場合が大半である。そしてそれは、実際に社会的評価を受けていないのでは無く、受けていないと「思い込んでいる」ことがある。

社会的評価を「受けていない」と考えるのは、結局、自分で自分を認めたくないからこそ思い至る考えである。「本当は優秀な人間なんだ」と思いながらも、それを簡単に証明する手段が無く、自分自身の能力や才能に対して自ずと疑いの目を向けざるを得ないのだ。自分で自分を疑うことほど不安定になることはなかなか無い。そういった自分への疑惑を払拭するために、とりあえずの社会的評価を獲得しようとする。

社会的評価を得られる場がないからこそ自分に疑いを向けていたのだから、社会的評価を捏造しなくてはならず、嘘をつくのである。そしてそこで得られた社会的評価は虚構であるのだから、細かい詮索を完全に拒否するほかは無い。自分の本当の姿を隠し通し、社会に向けた虚像を作り上げることに熱心になっているうちに、自分自身でその虚像を信じ込んでしまうことはままにある。「自分は優秀だ」と思い込むことで安定を得る。

しかし、所詮虚構は虚構に過ぎない。いつか本当の自分を受け入れなければならない日はやってくる。その点で貴重な時間の浪費といえるだろう。そしてもう1つ。その嘘は身近な人間に対して向けられることも注意しなければならない。自分の周りにいる人間、本来ならば信頼に基づく良好な関係を築くべき人との間に、決定的な亀裂を生じさせてしまう。最悪の場合には、その亀裂すら見たくないために、つまり嘘をついてしまった自分まで認めたくないために、過去との「決別」をすることがある。

人間関係を着信拒否してしまうのだ。その人との関係を持たなければ自分が嘘をついたことを否定できる。バイトを逃げ出した新人が着信拒否にしてバイト先との関係を絶とうとするのと同じように、人間関係を絶とうとする。確かに、その場はそれでしのぐことが出来る。そして「今度こそしっかりとやるぞ」と決意して次の関係へと向かう。

そのような人が「今度こそ」という決意を実行できるはずが無いのだ。最終的に「逃げる」という選択肢を隠し持っているのだから、過去の自分の失態にけじめをつけずに変わることなど出来るわけがない。そうやって人間の間を彷徨っていく、あるいはそれでも自分を受け入れてくれる「温かい」「優しい」人間関係の中に埋没していく。そうして一生を過ごしていくのかもしれない。

西ドイツの元大統領ヴァイツゼッカーはかつて

「問題は過去を克服することではありません。さようなことができるわけもありません。後になって過去を変えたり、起こらなかったことにするわけにはまいりません。しかし過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻もうとしない者は、またそうした危険に陥りやすいのです。」

と述べた。これはドイツが過去に戦争によって大勢の人々に傷を与え、その和解のための演説であるが、そのまま1人の人間にも当てはめることが出来る。過去の自分をどう評価し、どう受け入れるかによって現在を生きなければならない。過去の自分から逃げているだけでは、何も変わらない。過去を見直すことは厳しいことではあるが、それは過去を誤ったと考える人間の、そしてより良い現在を生きたいと思う人間の義務なのだ。

これらを自分への戒めとして、これからの人生に生かして行きたいと思う。