権威主義を捨てるためには。

権威主義という言葉には基本的に悪いイメージが宿るものだが、自分としてはそこまで悪いものではないか、むしろある程度は信頼に足る考えではないかと思っている。しかし、同時に、権威主義は最上の考えではないとは思っている。もっと人間の根源に迫るような考え方が存在するはずで、その前には権威など一瞬にして消え去るのではないか。

学歴などはその最たる例だ。偏差値の高い大学ほど社会的に認められているのは否定しようがない。基本的に偏差値が高い方が入学により努力を必要とすることを考えれば、学歴は(少なくとも勉強に関する)能力の証明となり、努力の証拠となる。その能力や努力を評価するという意味では決して間違ってはいない。

大学生というのはふとすると怠惰になりがちだ。最高学府と言われながらも、実際に専門的な学問に勤しんでいる学生は非常に少なく、自分を含めてモラトリアムでしかないというのが現状だ。大学がモラトリアム期間であることを認め、さらにその時間を獲得するために大学に入ろうとするならば、少なくともより高い生活環境、大学で言えば教養を学ぶ環境を選択するために努力をしなくてはならない。その意味で、大学に入るための努力すら放棄するならばそれ相応の評価しか得られないことは仕方の無いことだ。

就職活動において学歴フィルターが存在するのはそういった理由からだろう。面接でわかるその人の能力などほんの一部である上に、面接などいくらでも嘘をつくことができる。それに比べれば、学歴は勉強だけではあるがその人の能力や努力を素直に評価することが出来るため、信頼できる。その論理は必ずしも間違ってはいない。

しかし、それは決して正しくは無い。そもそも評価と言う考え自体が人間を序列化し、階層化する行為になってしまう。単純化してしまえば、他人を自分より位置の高い場合、同じくらいの場合、位置の低い場合といった風に考えることになる。無意識に「あいつには勝てる」という考えにつながってしまい、さらには自分で勝手に「自分より低い」と他人を判断することによって安心を得ようとするかもしれない。

そうなってしまえば、誰よりも最低な人間になってしまう。他人を貶めることで自分を高めることほど無意味で虚しいことは無い。そんな風に考えてはいないけれども、無意識にそうなってしまっていないかという不安は消えない。それは権威主義をある程度でも認めている以上は逃れられない不安になる。だから、権威主義を圧倒するだけの何かを探す必要があるし、権威主義を捨てられる方法が必要になる。

権威主義を捨てるためには、矛盾するようだが、何らかの権威を獲得しなければならない。権威を持たずして権威を否定しようとすれば、それは単なる僻みになってしまうからだ。つまり、「東大生なんて勉強しか出来ないよ」と東大の権威を否定したいのであれば、少なくとも東大生であるかそれに順ずる権威を保持していなければならない。それを早大生が言ったとしても東大に入れない人間の戯言としか思えない。

続く・・・?

ああ、何だかダメだ。言いたいことと全然違う気がする。やはり文章というのは生き物のようなもので、刻一刻と変化していくものらしい。そのときに感じたことをその場で一気呵成にものにしない限りはなかなか自分で思うとおりの文章を書くことは出来ない。昼間考えたことをメモしておいて、夜になってまとめてみようと思ってもそれは無理な相談なのだ。

というわけで、この件に関してはまた今度考えが浮かび、かつ日記を書くことが出来る状況にあったときに書くことにしよう。文章は一人歩きする。意のままに操れると思ったら大間違いなのだ。