苦手ではないつもりだけれど、きっと緊張する。

明日は教職大学院の二次試験、つまり面接です。面接自体はこれといって苦手なわけではないので、教育学的な知識の不足以外はこれといって心配していません。理想の教師像を語ってくださいなんていわれたら嬉しいけれど、さすがにそこまで甘くは無いだろう。現場の先生方もいるのだから、もっと実践的なことに対する質問が来るはずだ。とりあえず志望動機を読み直して説明できるようにしておかなければなるまい。

志望動機の核となるのはカリキュラム編成能力とそれを実践する指導力の獲得だ。教育実習で出来なかったことが出来るようになりたい。そこを訊かれたら正直に思うところを述べるだけだ。もしそれが大学院本来の学問内容と一致しないのであれば落ちたとしても仕方が無いし、自分にとっても受験した意味が無かったということになるのだろう。

教職大学院に進む意味は、教職に就いたときにより良いスタートを切ることが出来るようになる、ということだ。それは授業の専門的な分野以外での指導力強化ということになる。あるいは進路指導などの生活における指導力強化かもしれない。とにかく、メインは専門科目の深化ではなく、あくまで実践力の強化なのだ。その点は覚悟して受験したものの、やはり不安な点ではある。

指導力というのは、多少は性格や才能に左右されることがあるだろうが、経験によって大幅に強化することが出来るはずだ。そして、短期的視点からすれば、教職大学院に進むよりも教員採用試験を受けるなり、私学適性検査をうけるなりして現場に出た方がより実践的な指導力が付くことだろう。現職教員から休職して教職大学院に来るのであれば、それはかなりの効果を挙げるだろうが、経験のないストレートマスターにどこまで意味を持たせることが出来るかは正直疑問を感じざるを得ない。だからこそ、ストレートマスターに対しては学校実習を売りにしているのだろう。

それに対して、専門科目の深化を我流で行うことは難しい。何よりも自分の勉強の方針や方向性が正しいという保証がないのだ。大学または大学院に在籍していればその点においても指導を受けることが出来るが、現場ではなかなかそうもいかない。学者の意見のみが正しいというわけではないが、一介の教師がどこまで学問に入り込むことが出来るのかというのは難しい問題だ。そして、その点で誤りを犯してしまうことは、そのまま生徒に対する影響となって顕れる。

さらに、指導力というのは客観的に評価することが難しいのに対して、学問的な面では客観的な評価が求められるという点も考慮しなければならない。自由な指導を評価する人もそうでない人もおり、また状況によってその評価は変わる。しかし、学問の発展以外で学問的な面は変わらない。本来ならばそういったことは政治にも左右されてはならないのだ。それを独学というのは危険だ。

こう考えていくと、ストレートマスターにとっての教職大学院というのはデメリットのほうが大きいかもしれない。かといって教育の世界に出られるほどの指導力は今の自分には望めない。一度教壇に立ったらその時点から「先生」であること。それだから妥協や甘えは許されないこと。若さというのは自分以外の関係者に対する言い訳にはならないのだ。

言い訳が出来ないこと、あるいは仮に出来たとしても自分自身でそれを許すべきではないことが、教員就職をしないことや教職大学院に進まない(あるいは進めない)ことに対する最大の不安要因だ。言い換えれば、自分はまだ教壇に立つ覚悟が出来ていないともいえる。これからの2年間の過ごし方でその点を改善していく必要がある。覚悟の無い人間が、教壇に立つことは許されない。

恐らく、2年後も同じ悩みを抱えていることだろう。それは就職してからも変わらないかもしれない。そしてもしかしたらそれは悩み続けるべき問題なのかもしれない。指導力や実践力、あるいは学問面での実力に自信をつけてしまえば、そこで進歩が止まってしまう可能性があるからだ。教員は歩き続けなければならない。一人一人違った具体的な生徒が相手だからだ。教師は抽象的な教室や学校を相手にするわけではないのだ。

とにかく、今の自分に必要は物は、合格だ。それを掴み取るために、今日の残り時間と、明日の朝を最大限に使いきりたい。悩むのは合格してからでも全然遅くは無いのだ。逆に、落ちてしまえば悩むことすら許されないことになる。この問題は、あと1ヶ月ほどお預けとすることにしよう。