わかること

最近、勉強が面白い。日本史を始めとするは当然のこと、哲学、社会学、教育学・・・4年生になって、つまり社会に出るべき年齢になって(本来ならば)、無意識的に大学に残りたいという意思が動き出したのかもしれない。それでも、学問をしたいという気持ちは決してマイナスではない。どんな理由であっても、勉強・学問することは自分にとって良いことでないはずが無い。

時間の比較社会学というのを社会学概論でやった。真木悠介によると人々の時間意識は4種類に分けられるという。原始共同体型、ヘレニズム型、ヘブライズム型、近代社会型。原始共同体の時間意識は対極を振動するイメージ、ヘレニズムは円環型、ヘブライズムは線分、近代社会は直線という。この説明は難しく、自分も正しく理解できているとは思えないので説明は省く。しかし、中東での自爆テロ、欧米の個人主義というのはその時間意識に大きく左右されているという。大まかにしか理解できなかったが、それを知ったとき、自分の世界が広がった気がした。

歴史学も、教育学も、哲学も自分の世界を広げてくれる。知らなかったことを教えてくれる。だからそれが嬉しく、楽しい。その楽しさこそが自分の学問の原点にあるのだ。何か大きなことを成し遂げたいとか、重大な使命を果たしたいとか、そういう大それた動機ではない。だから、学者には向かないのだろうなとも思うが・・・

世の中のニュースがいつもと違う視点で見える、歴史的建造物の素晴らしさを理解できる、出来事を前向きに解釈できる・・・前に進んでいく気がする。それは自分に安心感を与えてくれる。停滞していない、そう思うだけで怯えないで済む。時間を無駄にすることは恐ろしい。この恐怖感はこれまでになかったものだ。そういう意味でも、勉強は自分を助けてくれる。

しかし、そうやって知識をつけて世界を広げていくことで、逆にわからなくなってしまうこともある。客観的世界が広がる一方で、内的な世界への理解が下がってゆく気がしてならない。自分自身は果たしてどんな人間なのか、それがわからなくなるのだ。自分の中の真理とは何なのか、それを理解することこそが恐らく最も安定をもたらしてくれるだろう。自分の内的世界の根源をつかみたい。

宗教学の授業で、人間にはコスモス願望があるということを教わった。今年当たりだったのは上記の社会学概論と宗教学だったのだが、それはまた別の話で、コスモス願望とは簡単に言うと「人間は秩序ある調和のとれた世界に住みたがっている」ということだという。コスモスの対義語がカオスだ。カオスの対概念として捉えた方が分かりやすいかもしれない。

この世は上の意味でのカオスだと思う。それは自分の主観ではこの世界に秩序をもたらすことが出来ないということだ。同じ客観的世界に生きていても、主観的にコスモスへと変えていくことの出来る人はいるのだろう。今、まさに自分はコスモス願望を強く持ち、その実現を不可能と考えているからこそ、カオスを恐れているのだと思う。ひとつの筋を通すことが出来ないから、次に何をしたら良いのかわからない。そしてその筋というのが自分自身のことなのではないか。

自分をしっかり持ち、その秩序・調和を持って世界に臨むことの出来る人こそ、コスモスに至ることが出来る。そうではない人はコスモスとカオスの別自体に気付かないか、カオスに怯え続けるしかない。具体的な恐怖ではなく、漠然とした、だからこそ一層程度を増している恐怖に襲われる。カオスにいては、本質を捉えることが難しい。

しかし、それすら正しくは無いだろう。恐らく、自分の感じる正体不明の漠然とした不安感の本質を自分の知る限りの知の中に求めているだけなのだと思う。本当に自分が感じていることと言うのは、誰にもわからないはずだ。どれほど内容が似通っていようとも、そこには絶対に差がある。そしてその差は見過ごすことの出来ないものに違いない。だから、さっきのコスモス願望もカオスへの不安も、とても近いようで、それ自体ではないのだ。