教育実習に際して・・・

明日から3週間、長いといえば実に長いが、これからの人生を考えればあまりに短い教育的経験期間。半年くらいは行きたいという向上心がある一方で、教育実習生と言う実に難しい立場でそれほどの期間学校にいるというのはかなり大変なこととも思う。生徒に対しては教師として対応しなければならないが、先生方に対しては学生として接しなければならない。何をどこまでやって良いのか、いまいちはっきりしないところが何よりも不安に感じられる。

現場に立つことに関しては、思ったよりも不安はない。何事もそれが起こる前までが最も緊張するもので、教壇実習よりも今ここで日記を書いている方が緊張しているかもしれない。一歩目を踏み出すまでが大変なのだ。塾で初めて授業をする直前の緊張感(思い返せばあまりにお粗末な授業だったが)、それが思い出される。しかし、塾で4年目を迎えると大半のことは普通にこなすことが出来るようになってきた。4年もいれば当たり前だろうとお説教を食らうかもしれないが、そう簡単にいかないのが教育の難しさだ。経験を積むことは出来ても、生徒に合わせる柔軟さというのはなかなか身につかないのだ。

この4年間の教育的経験を教育実習で生かすことが出来るだろうか。塾での教育的経験だけは目的意識を持って何よりも大切に考えてきた。それが報われることを願うばかりだ。ただ、学校と塾は全くの別物だから、そう上手くはいかないだろうが。

恐らく教育実習は私に信じられないほどの教育的経験を積ませてくれることだろう。理不尽なことも多いだろうが、とにかく自分を信じて精一杯頑張るだけだ。余計なことは考えずに、出来ることを確実にこなす。そういう心構えで行こうと思う。考えてみれば、学校での教育的経験は初めてだ。塾での経験に甘んじて学校ボランティアなどには応募してこなかった。今思えば愚か極まりないが、そんなことを言っても始まらない。

教師にとって必要な資質というのは、究極的にまとめてしまうと「精神的向上心」だと思う。あまりに典型的過ぎて、理解してもいないで有名どころを引っ張ってきたように見えるが、突き詰めていくとそういうことになった。忙しさや大変さにかまけて自身の能力の向上を怠ったところから、理想の崩壊が始まっていく。「まぁそんなものだよ」とか「仕方ない」というのは、時として必要にはなるが、恒常的に認められるべきものではない。特に教師は成長過程にある生徒と接することが仕事なのだから、その成長を止めてしまうような言動は現に慎むべきだ。

自分が教師になるにあたって、非常に警戒していることがある。それが「傲慢になる」ということだ。自信を持つことと傲慢になることは紙一重であるが、自信のない人間はしっかりとした仕事は出来ない。かといって、少し間違ってしまえば傲慢になることで自分の成長を止めてしまうことになり、それは他人にも危害を及ぼす。

学校とは特殊な環境で、22歳の新米教師でも、65歳のベテラン教師でも、生徒からは一様に「先生」と呼ばれる。生徒から見た場合、教師は、少なくとも形式上は、全て目上の人間になる。職員室では教師の序列というものがあるだろうし、もしかしたらそこに甘えがあるかもしれない。問題を起こしたときも「あの人はまだ新人だから」というような甘えが。しかし、生徒との関係ではそれは成立しない。理想論になるが、教師は常に「教師」たる態度を示さなければならない。

「自分は教師たる資格があるだろうか」という自問をすることなく、「教師であること」を権威の根拠とするのであれば、それは傲慢になるだろう。今、自分は教職に就いているわけではなく、そこに向かって鋭意努力すべき立場にある。だからこそ、「理想の教師」を目指していられるのかもしれない。教職に就くという第一段階を見事修了し、現場に出て「先生」「先生」と呼ばれるようになったら、そして半端に実力があったとしたら、その時自分は「絶対に傲慢にならない」と言い切る自信はない。

一般的な企業で言うならば、「顧客」である生徒・教師(実際は全くそうではないが)に対しても、「教師」という権威を着ることが出来る、あるいは着なければならない教職は傲慢になりやすい。それは教職の性質を考えるならば、最も避けなければならないことであるにも関わらずである。「指導者」ではなく「支配者」気取りの教師というのは、探せばいくらでもいることだろう。自分の価値観を押し付ける、相手の話を聞かない、強圧的な指導方針・・・この程度ならまだ意識の低さといえるかもしれないが、時としていじめに加わる、嫌いな生徒に辛く当たる、陰口を言うなどといった非人間的所業が「教師」としての立場を利用して行われていることは、教師が傲慢になりやすいことを示すには充分すぎる証拠になる。