学ラン

学ランの「ラン」は蘭学のランと同じ、洋物といったような意味だったように記憶しているが、土曜日の学校が半日で終わることを「半ドン」という。この「ドン」は何なのだろうか。自分の学校では「半ドン」という言葉すら使わなかったが、多少年齢を重ねた人であれば結構使うらしい。明治時代には、正午を知らせるために空砲を鳴らしたというから、正午の空砲=「ドン」で半日で帰ってくるという意味で「半ドン」というのかもしれない。全くの推測だ。

別に「半ドン」の語源などはどうでも良いのだが、久しぶりに塾が半日休みなのだ。それを「半ドン」とは言わないだろうことは書いている途中に気がついた。とにかく午前中をゆっくりと過ごすことが出来るというのはすばらしい。早起きを習慣付けるために7時には起床したが、午前とはこれほどまでに長い時間だったのかと改めて気付かされる。これまではバイトをしているか10時過ぎまで寝ているかだったので、午前中は忙しく去るまたは一瞬で終わるというのが普通だった。朝食を時間をかけて食べ、食後のコーヒーでくつろぐというのは、なかなか乙なものだ。

早寝早起きを心がけなさいと小学生の頃から言われ続けてきたが、ようやくその価値を理解することが出来るようになった。最近読んだ『思考の整理学』にもそのススメが載っていたが、確かに全てにおいて早起きは良い。出来れば太陽が顔を出す前に起きる癖をつけたいものだが、それは高望みと言うものだ。段階を踏んでいかなくてはならない。今日で早起き5日目だ。習慣化するには21日続ける必要があるというから、あと2週間とちょっとである。教育実習に備えて、ゴールデンウィーク前には習慣化したい。

3月は春休みであったために、読書も大いに進み、月間15冊読むことが出来た。それを素直に喜ぶと同時に、読書は数をこなすためにやっているわけではないことを自覚しなければならないが、この調子で見識を増やしていきたいものだ。最近集中的に読んでいる作家が城山三郎だ。彼の小説に初めて触れたのは去年の前期の授業課題として出された『落日燃ゆ』だった。半ば強制的に読まされたのだが、この作品に大いにハマってしまった。歴史を、特に近現代史をしっかりと勉強してから読むと、より深く楽しむことが出来る。評伝として読むことには賛成できないが、日本が戦争に至った経緯がよく説明されていた。

しばらく城山作品を読み続けたので、そろそろ別の作家に移ろうと考えているが、その最後の本がこれである。

雄気堂々(上) (新潮文庫)

雄気堂々(上) (新潮文庫)

日本産業界の基礎を築いた渋沢栄一を主人公とした歴史小説だ。渋沢栄一は抜群の行動力で日本産業界の育成の立役者となったが、「渋沢財閥」なるものはあえて形成しなかった変わり者である。三井三菱のような巨大財閥を築こうとすればいくらでも出来たにも関わらず、「利益は社会に還元する」といい、実際にそれを行動に移したという彼の人生観や国家観、あるいは社会観というものには大いに興味を惹かれる。

まだ上巻の半分にも至っていないので、作品全体の評価をすることは出来ないが、ひとつ「なるほど」と納得させられた渋沢の言葉があった。

「金は働きのカスだ。機械を運転しているとカスがたまるように、人間もよく働いていれば、金がたまる」


「さすが渋沢」と感嘆させられる。社会に出る直前になって、働く意味を考える時期になった自分には心に響く一節だ。テレビをつければ「年収1000万以上が理想の結婚相手ですね」と、愚かな人間が派手に着飾って抜かす世の中の流れとは対照的だ。もちろん、世の中の大半の人間はこんな愚かな考えは抱いていないだろう。多くは生きるために必死になって働き、子育てをし、家事をしていることと思う。しかし、年収が仕事の価値の大きな判断基準となっていることは否めない。それは決して悪いことではないのだが、社会に出たことの無い温室育ちには納得いかない部分もあるのだ。

収入とは労働の目的ではなく、結果であるべきだという理想が自分の中にはある。労働の目的は食事を離れた高い位置に存在するはずであって、その目標に向かって努力する行動の副産物として収入があるとすべきだと。大甘な考えかもしれないが、なるべく労働と収入は切り離して考えたい。「労働目的=収入」の公式が成立するのはバイトだけだ。

「金は汚いものだ」という馬鹿げたことを言うつもりは無いが、どうも最近ふと力が抜けてしまうと金が手段以上の存在になってしまいそうで恐ろしい。「金はあくまで手段であって目的ではないのだ」ということを忘れてしまうと、仕事で力を抜き始める。ひどい場合は不正に走る。いつでも最高の仕事をしたい、そのためには金は手段以上の存在になってはいけない。

特に、教職は注意が必要だ。他の仕事も概してそうなのだろうが、力を抜こうと思えばどこまでも抜けてしまう。一度授業の方法を確立してしまえば、それの繰り返しでかわしていける。教科書に沿ってさえいれば良い(それも簡単ではない、むしろ大変)・・・仕事をノルマになぞらえてしまえば、もうおしまいだ。自分自身の成長もないし、生徒が教育被害者になってしまう。

仕事をするにあたって、一本の筋を通すこと。これは重要だ。明治時代の日本は「列強に追いつき追い越せ」の精神を筋としていた。そうしないと植民地になってしまうという危機感も手伝った。公の筋があったというのは、明治日本の発展に大いに貢献したことだろう。しかし、現在の日本に公の筋は無い。むしろ、本来はあるべきではないかもしれないとも思う。世界有数の経済大国となり、生き残るためではなく、より良い生活を送るために働く。言い換えれば、より良くならなくても、今の生活に満足していれば大丈夫な時代なのだ。筋を通す必要がなくなっている。筋を通すことはオプションなのだ。

難しい時代になったと思う。中学生や高校生に定期テストや受験が無いのに勉強するか、となれば大半はしないだろう。自分もほとんどやらないと思う。好きな科目だけやるはずだ。現状に満足するように努めれば、向上は無い。Kが「精神的向上心のない者はバカだ」といったのは、正鵠を射ているようだ。今ではさすがに「バカだ」というのは言い過ぎのような気もするが。