連星計算は出来たけれど・・・

地学、とても楽しく勉強できました。センターでも87点と理系がダメな自分としては上々の点数でした。授業内容も地層などはいまいち好きでなかったけれど、天体は最高に面白かったのです。宇宙はこんなにも広いのか、スペクトル型が違うから見え方が変わるのか、重力が大きくなりすぎて消滅してしまう星なんかあるのか・・・新しい知見がたくさんありました。

夜空に輝く星の一つ一つもしっかりと存在していて、あるいは逆にもう存在しないのに自分の目には見えているという不思議。人が宇宙に憧れるのは実に自然なことといえるでしょう。木星には16個も衛星があって、そのうちのどれかには火山活動があって生命が存在しているかもしれない。そう思うと、宇宙を知りたいという気持ちが無尽蔵に出てくるのです。

しかし、それを私が生きているうちに目にすることは恐らく出来ない。どれほど美しい映像を見ることが出来るようになったとしても、それは決して本物ではない。臨場感というものが全く無い。太陽系ならばまだ納得できるかもしれません。太陽系の外の星になると、その映像を望むことすら出来ない。理論で、静止画でそれを感じるしかないのです。そこに一抹の虚しさを覚えます。手が届きそうなのに、完全に自分の外にある存在に、興味を惹かれる一方で、虚無感も残ります。

それは決して天体に限った話じゃない。歴史もそうですし、スポーツですらそうだ。どれほど歴史を学ぼうとも、激動の時代を肌で感じることは出来ない上に、その肌で感じたものはどんな理論よりも勝るものがある。どれほど海外サッカーに詳しくなったとしても、あのピッチに立つ選手の高揚感はわからない。それは運でもあり、努力の賜物でもあるのです。あるいはその二つの結晶といっても良いでしょう。努力しても、運が欠ければ出来ないこともある。運が良くても努力が足りないこともある。人間というのは実に難しい。

それらと同様に、人間の生き方も決して正解に触れることの出来ないものなのです。どんなに頭を働かせても、何冊古典を読んだとしても、正解にたどり着くことは無い。そもそも存在すら疑われるその正解を求める意義すら疑わしい。それでも正解に近付きたく思うのです。あくなき正解への探究心こそが、人間を正しい方向へと導いてくれるのだと信じてやみませんが、やはり正解に触れられないと不安になります。虚しくなります。

世の中にはわからないことだらけですが、わからないだけならば大したことではないのです。触れられないこと、それが本当に虚しいことです。