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歴史に学ぶこと
最近、卒論を意識し始めたことでアジア・太平洋戦争関連の書籍を読むようになった。とはいえ、小説や新書を読んでいる程度なので卒論までの道のりは長く果てしないのだが。それでも何もしないよりははるかにましだということになるのだが、先の戦争から学ぶことというのは大いに残されているように思う。日本史の教科書を通じて戦争を学んでしまうと、そこではやはり国家間の戦争がどうしても強調されてしまい、個人の戦争というものを拾い上げることはほとんど不可能だ。年表を単純に覚えることには何ら意味はないが、個人の目から戦争を見直すことには歴史を学ぶ意味を見出すことが出来るのではないか。
戦争関連で最近読んだのは、以下の5冊だ。読んだ順番に
日本の戦時下ジョーク集 満州事変・日中戦争篇 (中公新書ラクレ)
- 作者: 早坂隆
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2007/07
- メディア: 新書
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- 作者: 保阪正康
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2005/07/20
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- 作者: 城山三郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/07/28
- メディア: 文庫
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アジア・太平洋戦争―シリーズ日本近現代史〈6〉 (岩波新書)
- 作者: 吉田裕
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 2007/08/21
- メディア: 新書
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- 作者: 日本戦没学生記念会
- 出版社/メーカー: 岩波書店
- 発売日: 1995/12/18
- メディア: 文庫
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となる。正確に言えば、最後の本はまだ読み途中である。しかし、これまで読んだ4冊よりもはるかに学ぶことが多いのは断言できる。『きけ わだつみのこえ』の特徴はなんといっても戦没学生の手紙をほとんど原文で読むことが出来る点にある。彼らが何を考え、何を見て、何を感じたのか。間接的ではあるが、誰かの目を通さずに戦争に触れることができる貴重な文献といえる。
もちろん、この本が占領下という特別な背景をして編集されたことを忘れてはならないが、少なくとも学校の戦争歴史像を崩壊させるには十分な力を持っている。山川の教科書では、戦争の記述の中でほとんど日本軍の個人の意思を引用していない。日本軍が何をした、どこを占領した、虐殺した、大敗した・・・こういった記述ばかりである。あくまで組織としての日本軍・日本国の動きを記述したに過ぎない。それでは真の戦争の姿など微塵も伝わらないことだろう。そういった部分はあえて避けているのだろうか。
学校で何をどう教えるかということはとりあえずおいておくことにしよう。将来的には重要な話ではあるが、緊急に必要なことではない。先日沖縄戦の記述に関して大規模な集会が開かれ大きな問題となったが、もっと教科書のあり方、特に資料が豊富な近現代史に関しては生き生きとした(という表現が正しいかはわからないが)歴史を伝えるようにしていかなければならないと思う。また話がずれた。
学徒兵や戦没学生の手記に多いのは、精神の自由を失うことへの恐れや怒りの記述だ。軍隊という組織、あるいは戦争という特殊な環境が人格をすり減らしていくなかで、決して自分らしさや人間らしさを失わんとする決意は並々ならぬものなのだろう。日常化する非人間的行為や上官からの理不尽な鉄拳制裁などに耐え抜くには、余程強く自分を維持するか、その逆に完全に自らの意思を放棄するかという二択を迫られることになる。特にそれが強く表れていると感じたのが、以下の一文だ。
「我々は決して犬猫にあらず、なぐられて動く動物にあらず。自分は自分を信ず」
これを記した本人は戦後まもなく戦病死している。この文章が記されたのは、終戦より3年ほど前のことになるが、彼は果たして自分を信じぬくことが出来ただろうか。それとも自分を捨てて軍隊の一部品になったのだろうか。せめて前者であってほしいものだ。
精神の自由が如何に大切なものであるかということを思い知る機会は、我々にはほとんど無いといっても良いくらいだ。人格が奪われていく恐怖などを味わうことなど決して無い。あまりにその存在が当たり前になってしまうと、その大切さすら忘れてしまうものだ。今こうしてちょっとした考えを記すことが出来るというのは実は相当な幸福であるかもしれない。
自分は物事を不必要なほどに意識してしまう性格ではないかと自分で思っている。それはある意味で意識的にそうしようとも思っていることでもあるのだが、意志の元に感情がコントロールされ、意志の元に生活が規定されて欲しいと願っている。その達成は全くといっていいほどに出来ていないのだが、意志の力は絶対的に信仰している。意志の力ほど強いものは無く、そうあるべきだと思う。
とはいえ、戦前の軍隊的精神主義とはまた違う。日本人は元来イデオロギー偏重のきらいが見受けられると思うが、その傾向が自分にも見られるということだろうか。戦前の軍隊的精神主義は東条英機の「精神力で敵機を落とす」という言葉に如実に表れている。確かに高射砲弾を敵機に当てようと思うのと、思わないのでは、撃墜の可能性に多少の差をもたらすだろう。しかし、ことは単純に砲弾やその破片が敵機に命中するかという極めて物質的な問題なのである。この物質的な問題を考慮した上で、私は新しい精神主義を取っていると自覚している。
自分でも古臭い考え方で、国語の教科書によく出てくる自然を克服しようとする愚かな人間性が個人に投影されたに過ぎないのだなとも感じてはいるのだが、どうも意志を持たずして生きていくのは気分が悪い。何も考えずに生きてしまうような自分を許すことは出来ないだろう。その考え方が正しいか正しくないかはわからないし、人によって答えは異なるだろう。しかし、それがどのような性質を持つのであったとしても、考える能力すら消し去られてしまうことがどれほど恐ろしい問題なのかということは言うまでもない。想像しただけでもぞっとする。
重ね重ね今は意志を奪われることが無いだけに幸せな時代だといえる。恐らく、そういえるのは自分が大学生であるからで、就職したときからその完全なる精神の自由は徐々に奪われていくのではないか。
精神の自由は時間の自由と密接に関連していると考える。考える時間があってこそ自由な精神が確立されるのであって、考える時間が無かったとしたらそこに自由な精神は存在しないのではないか。日本人はよく働くという。過労死はもはや国際用語だ。そんな労働環境において、自分はどこまで精神の自由を保つことが出来るか。戦前と違って、精神の自由が保障されている環境下でその自由が奪われていくのだとしたら、それはそれで恐ろしいことだと思う。いつかはこんな何でもない、単純に生きていくのには必要の無い思考は無くなってしまうのだろうか。
就職活動で辟易している同学年の学生はもうめずらしくなくなった。教員採用試験や院試まで切羽詰った状況ではない(本当は大変なのだが)自分は彼らからすれば良い身分なのであろう。こうしてゆっくりと(でもないが)考えを記していられるうちは、なるべくそうしていたいと思う。ここのところずっと日記からは離れていたが、たまには長く書いてみることも良いものだとしみじみと感じられた。