適性か夢か両立か。

大型台風の台風9号が関東地方に上陸するとのことで、明日のバイトは休みになるかと期待していたのですが、どうやら明日の昼ごろには安定化するそうで、その目論みは見事に外れそうです。ここまできてしまったら期待できるのは大雨による地下鉄の冠水しかありません。何年か前には地下鉄が大変なことになったそうで、今回も東西線が同じようになったとしたら、きっと休みになるに違いない。不謹慎ながら大変期待しております。風神様、雷神様その他の神様よろしくお願いいたします。

さて、実は昨日それなりに長めの文章を書いたにもかかわらず、謎の力が働いたせいか全ての文章が消えることになりました。おかげで完全にやる気を削がれてしまったのですが、今日は少し時間に余裕があるので、ちょっと考えをまとめてみようと思います。問題は「適性と夢はどちらを優先すべきか」という点、いよいよ進路を本格的に決定しなければならない時期になり、後戻りの出来ない時期になったので、本気で考えないといけません。でもきっと、予定している進路を変えることはないでしょう、変えられるだけの勇気がないのですから。





誰にでも、適性というものはある。私は天才の存在を信じるので、何でも上手く出来る神のような人間も存在すると考えているが、多くの凡人はそうは出来ない。誰しもが得意なこと、苦手なことを持ち、出来れば苦手なことはしたくないと思うだろう。「好きこそものの上手なれ」という言葉にあるように、好きなものは得意になり、得意になればさらに好きになるという、好きのインフレスパイラルが発生する。もちろんそれは苦手なことにもいえるのであって、その場合は逆に嫌いのデフレスパイラルが起こる。

そこまでは実に自然な流れであって、深く悩む問題ではなく、もっと悩ましい問題がある。それが「下手の横好き」の部類である。下手だけれどもそのこと自体は好きだという場合は、どうしたら良いのか。スポーツや趣味の分野であれば、それは大した問題ではない。誰にも迷惑をかけることがないからだ。不器用な人が裁縫をしようとしても、本人が怪我をする程度であるので、非難される言われもないし、頑張れば良い。しかし、もしそれが仕事だったとしたらどうだろうか。

例えば、政治家を考えてみる。政治家はリーダーシップやカリスマ性が求められる典型的な職業である。国会運営においては一人ひとりの議員の力が大きく影響することはあまり多くはないかもしれないが、選挙で勝つことが出来るかどうかというのは、個人の力量に大きく左右される。どれほど説得力のあるような演説が出来るか、どれほど人を惹きつけられるかが大きく影響し、細かい政治主張は黙殺されがちだ。だとすれば、政治家の条件には演説が上手いということが必須である。

では、誰もが演説を上手くこなすことが出来るかと言われれば、もちろんそれは「NO」である。演説に向く人間もあれば、事務に向く人間もいる。事務に向く人間が政治家としてやっていこうとすれば、失敗することは目に見えている。縁の下の力持ちタイプなのか、神輿に担がれるタイプなのか、それを見分けなければならない。小泉政権があれほどの支持率を得られたのは、小泉前首相が神輿に担がれ、祭りを盛り上げるタイプであったからだろう。

政治家は個人の向き不向きが極端に顕れる仕事であるが、どのような職業であれ、向き不向きというものは必ず存在する。そして、私が目指そうと考えている教職もかなり向き不向きが顕れる職業であるだろう。人と密接に関わる職業であればあるほど、その適性が問われるのだと思う。コンビニの店員ならば誰がやっても大差はないだろうが、(私は大嫌いではあるが)ホストは外見を抜きにしても誰もが出来ることではない、それどころか成功するのは一握りだろう。

では、果たして私は教職に向いている人間なのだろうかと考えてみた場合、それは少なくとも積極的な「YES」ではないだろう。知識量や技術的な面ではなく、人間性においての話だ。だが、決してどうしようもない状態でもないだろう。塾でバイトしていて、必ずしも否定的ではないということはちょっとした自信になった。もしかしたら、それは単なる自惚れである可能性ももちろん否定は出来ないのだが。

しかし、私が自分を「教職に適性を持つ人間である」とはっきりと断じ得ない理由は、もっと深い部分に潜んでいる。むしろ、その面だけにライトを当てれば、間違いなく私は教職に向かない人間なのである。普段はそれが表に出ることはほとんどないのだが、確実に心の底に存在し、何が原因で表出してくるかはわからない。約半世紀も働くことになるのだとすれば、それが表出するのは一度や二度では済まないのかも知れない。

自分自身ですらその存在に恐怖するのは、一言で言えば「人権感覚の欠如」、あるいは一種の「優生学的思考形式」である(後者には多少なりとも語弊があるかもしれない)。例えば、かつて幼い私は障害者に対する優越感というものを間違いなく持っていた。私の小学校のクラスには身体障害と知的障害を持った生徒が一人いたのだが、私を含めたクラスの大半は彼に対して上位にいると「自然に」感じていた。「自然に」というのは、体育や座学の分野においては間違っても彼に「負ける」ということはなく、放っておいても「勝てた」ために、「テストで点が高い方が賢い」と思われるのと同じような感覚でいたということである。

小学生であれば、一定の数は「自然に」このような考えを持つだろう。「自然」であるからこそ、そこには大人が障害者を差別する以上の残酷さが存在するのであるが、まだ理性が発達する以前のことであるので、その後のその人の成長過程如何ではそのような優越感は離れていく、あるいは抑えることが出来るだろう。現在の私も理性によってそのような優越感を「抑える」に至った。しかし、果たしてその優越感は私の中から消滅したのであろうか。否、決してそんなことはない。形を変えて今も根強く残っているに違いない。

それは現在では犯罪者に対する感情に形を変えている。特に精神障害を持っていると言われる容疑者が起こした犯罪事件に関しては、非常に懐疑的な意見を持つ。その典型が、山口県光市で起きた母子殺害事件である。その痛ましい事件の内容をこの場で改めて表記する必要は無いので割愛するが、私がひどいと感じたのはその裁判での弁護側の発言である。

殺害事件等において、弁護側が被告の精神障害を主張することは決して稀なことではないが、この事件の場合は常軌を逸しているといわざるを得ないものであった。残虐な殺し方をしておきながら、「被告は被害者に甘えたかった」「死体を押入れに隠したのはドラえもんが助けてくれると思ったから」「死姦したのは生き返ると思ったから」という主張がどうどうとなされているのである。

そういった主張を弁護側が行うことは法的には問題はない(私には裁判を冒涜しているとしか思えないが)。仮に百歩譲って被告が弁護側が主張するような精神障害を抱えていたとする。そうだとしても私はそのような「社会不適応者」は「隔離」するべきであると考えてしまうのである。弁護側の主張にどれほど問題があろうとも、精神障害を理由にその人物を社会から隔離すべきという思考には大いに問題がある。

人を殺害しかねないほどの人物だとすれば、その人物を隔離することにはある程度の正当性は存在する。アメリカでは性犯罪者にはマイクロチップを体内にはめ込み、常に監視する地域があるという。これは、日本においても性犯罪、特に幼児を狙う犯罪が多発している現状を考えれば、有効な防止手段といえるかもしれない。しかし、それは必ずしも全面的に正しくないことは言うまでもない。

罪刑法定主義に従えば、罪を刑によって償った場合には、法的にもう「負い目」はない。前科者として社会から白い目で見られるのだが、法律上は一般人と同様ではないのだろうか(実際どうなのかはわからないが)。だとすれば、前科があるという理由で、人を区別することは正当ではない。(真実であると仮定すれば)それは「理解」出来る。

だが、理解は出来ても「実践」は全然出来ていないのである。私は本心では、計画的・積極的な犯罪を犯した人間は厳罰に処せられるべきだと考えている。具体的には殺人事件に関しては自らの死を以て償う、あるいは遺族に深い心的な傷を残した場合は、遺族によってその犯罪者は「私刑」に処しても良いのではないかということだ。もし私が、上記の光市同様の事件に遭遇した場合、きっと目も当てられないほどの残虐性を持つ手段によって犯人を殺害するだろう。このように書くと実に恐ろしいことではあるが、そのように考える自分がいることははっきりと認識しなくてはならない。

このような私の犯罪者・前科者に対する「更正の可能性の否定」の思考は正しくない。間違いなく正しくない。そしてそのような考えを少なくとも公的な場においては表に出すこともしないだろうし、間違っていることも理解しているつもりである。本心を理性によって克服することに私は今まで価値があると信じてきた、それによって自らを変えられると思い込んできた。しかし、自らが犯罪者等の更正の可能性を否定することで、その思い込みも否定されたのである。

正しくない本心を理性によって押さえ込むことは、病気に例えて言えば対症療法に過ぎない。症状が出ないように薬を使用しているだけであり、完治とは根本的に違うのである。いつ何時、薬の効果が切れてしまうのかわからないようでは、私自身も「社会不適格」あるいは「教職不適格」な人間なのかもしれない。

教職において可能性を否定することは絶対にやってはならないことであると信じている。そういった意味で私は校則違反者に対して退学処分を下すことは間違っていると考えるが、私の違反者切捨て、異端者排除の思考からすれば最も正しい処分方法となる。理性と本心が乖離しているような人間が、何を教えることが出来るというのか。そして、生徒はそういった私の内部の矛盾を敏感に感じ取るのではないだろうか。また、何よりもその矛盾が学校・同僚・生徒を決定的に傷つけてしまうことはないだろうか。

以上のような点からは、私には教職適性は全くないといっても良い。教職を神聖視するつもりはないが、少なくとも可能性を本心から信じるような資質は必要ではないか。日本には多くの教師が存在するが、その中にどれほど私の言う資質を持った教師がいるかはわからない。教師も人間である以上、大きな失敗することもあるだろう。しかし私はその点を逃げ道にするべきではない。

ただ、これほどまでに私の理性が教職適性を否定しながらも私が教職を望んでいるのは、それが長年の夢だったからである。教壇に立ちたい、歴史の面白さを知ってもらいたい、生徒と貴重な時間を共有したいという気持ちもまた本心なのである(書いていて恥ずかしいのであるが…)。ここでもまた1つの乖離が起きている。適性と夢が乖離しているのだ。

人間は夢の実現のために生きている時間を幸せと感じる。それは部活、受験、恋愛、就職など全てにいえることだ。逆に言えば、夢のためでないことをやっているとき、それは幸せな時間とは言いがたい。誰もが人生は一度しかなく、自分自身の幸福を追求するために生きているのだとすれば、夢を犠牲にしてしまうことは最大の不幸といえる。ただ、私の場合は夢の実現を優先することで、私の関わる大勢の人に迷惑をかけるかもしれないのだ。慎重に判断を下し、もしそこで、夢を優先したいと考えるのであれば、私は私自身で内在する矛盾を早急に解決する手段を見出す覚悟をする必要がある。

どうして私はこうなのだろうか。誰もがそうなのだろうか。誰もがそうなのであれば、少しは気持ちが救われるのであるが、何の解決にもなっていないという事実は変わりない。こういうときに、私はどうしようもなく自分が嫌いになるのである。しかし、もしかしたらそれすら防衛機制の一種なのかも知れず、もしそうなのだとすれば、私は実にどうしようもない人間だということになってしまう。生きているのは私自身であり、1つの統一された意思で動いているにもかかわらず、こうした問題が起きてくるのは実に不思議なことだと思う。