優越感を抱くことは人間性の価値を下げるのか否か?

思い返せば、私は常に何らかの優越感を得ようとしてずっと過ごしてきたような気がする。優越感というと非常に聞こえが悪いのだが、良く言えば自分の誇れるものが欲しいということだ。誰しもが何らかの自分を定義するものを持っている、あるいはそれを探していることと思う。それに自分も例にもれなかったということだ。

中学受験、大学受験とそれなりに勉強してきたつもりだが、その勉強の原動力は「合格したい!」という強い執念よりも、模試で結果が伸びていくことや入試という戦いに勝ち抜くという勝利へのこだわりの方が強かったと思う。学問的に考えれば実に不純な動機といえると思うが、高校までの勉強の動機なんてそれくらいで十分ではないか。

ここで問題になるのが、勝利への執念という点。勝利への執念といえば、目指せ甲子園・国立のような美しいスローガンが思い浮かぶ。確かにチームでも個人でも何らかの目標に向かって努力し、勝ち進んでいく姿というものは美しいものだ。しかし、勉強はそうではない。過度の競争は良くないといって定期試験の学年順位を公表しないのが4期生のルールだったようだが、勉強は勝ち負けではないという考え方が強いのだろう。

しかし、少なくとも受験を目的とした勉強は競争だ。内容が運動から学問に変わり、目標が甲子園から大学に変わっただけでやっていることは変わらない。同じ土俵の相手を落とすことで自分の地位を確保する。それは決して豊かなことであるとは思えないが、現実ではあると思う。

自分のことを考えてみると、自分は実にこの競争型社会に向いている人間ではないかと思う。それは勝てるかどうかが問題ではなく、相手に勝つことに快感を覚えるかどうかという点において、そして競争以外でその価値を見出すことが極端に苦手という点においてだ。私はなかなか勝利以外の価値を見出すことが出来ない。

もちろん、全てが勝負事だなどとは思っていない。ただ、何か自分の強みを探してみたときに見つけやすいのが勝負事に勝ったということだとは思う。人が必死に資格を求めるのは、自分は何かが他人とは違う、他人よりも優れているということを客観的に証明するためでもあるのではないか。資格によって自らの能力を証明することも出来るが、それ以上に入社試験で隣に座った人間に対して心理的に少なくとも不利にならないためには、私には何らかの客観的証明が必要だ。

何かの分野で1番になりたい、それは単純にそのことが好きだからというのであれば美しい。自分との戦いであり、他人と比較することなくとも自分の強さになる。しかし、自分は1番なんだということで自分自身を落ち着かせようとしているのであれば、それは実に悲しいことではないだろうか。本当の強さを持ってない、誰かに1番を奪われたらその時点で自分の価値が著しく低下することになる。そして過去の栄光にすがるようになったらもう終わりだ。

私はかなりの権威主義者であると思っているが、それは自分に対する自信がないということに起因するのだろう。誰かに権威を与えられなければ、それに自信を持つことが出来ない性格だ。客観的な証明がないと自分自身さえ見えてこない。誰かが証明してくれなければ、評価してくれなければ自分が正しい道を歩いているのかすらもわからないのだ。

だからこそ、競争以外の価値の算出方法がわからない。自分に自信が持てないために自己評価など何の意味も持たないからだ。

誰かに勝っている、世の中の大半よりも上だ・・・このような考えは概して人間の価値を下げるものだと考える。勝ち負けでしか人を判断できないようでは、複数視点からの評価などは決して出来ない。そもそも他人に対して劣等感と優越感でしか対応できないとしたら、いつかはダメになると思う。

眠い!寝よう!