堕落だけど堕落じゃない。

梅雨に突入したというにもかかわらず、全然雨が降らなくて水不足が心配な今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。私はといえば、相も変わらず自堕落な生活を展開しております。本日も、8時には目を覚まして1限に出席しても良かったのですが、何だか読書がしたかったので自主休講にした次第です。

まぁでもまだ火曜日は3回しか休んでいません。これで前期は何があろうと休めなくなりましたが、半期に3回までの休みはセーフという自主ルールを遵守している点からすれば、ある意味自己統御は出来ているのかもしれません。前向きに捉えましょう。これ以上休んだら自分を裏切ることになるので、堕落ということになります。

さて、貴重な授業を休んでまで何を読んでいたのかというと、↓です。

入門 経済学

入門 経済学

かなり前に購入したのですが、本棚の肥やしになっていました。裏を返してみれば何と3000円もしていたのです。これは読まねば勿体無さ過ぎるということで、実家の本棚から引っ張り出してきて今週と来週で読破しようと決めました。

でも難しいわ・・・確かにわかりやすい文章で、丁寧に書かれているので、お堅い経済学の本よりはかなり読みやすいはずです。古賀がオススメする理由もよくわかります。でも細かいところがよくわからない。まだ10分の1くらいしか読んでいないのに、早速わからない点が・・・

これは経済学部の友達が必要になるのですが、生憎交友範囲の狭い私の周りには経済に精通している暇人はいないのです。こういうときに大切なのは人の輪だなぁ・・・と実感させられます。社会科を教えるものが経済学くらいわからなくてどうする!と反省するのですが、いやいや、難しいよこれ。。。

これだったら経済学部に入学すべきだったか・・・と今更ながら後悔しなくもないのですが(まぁ入れたかどうかは別として)、こんなことばかりです。高校3年の自分に、大学は良く調べてから決めなさいといってやりたいところです。バカだった・・・ネームバリューの何するものぞ、己の信じる道を行くが良し。まぁ信じた道が根拠なかったわけですが。

テストのときに限って掃除したくなるのと同様に、勉強しなくて良いときにだけ勉強する気になるのはなぜでしょう。それが凡人の凡人たる所以だと思います。この矛盾した気持ちを克服できた人こそが、教科書に名を残してきたのでしょう。やらされるとやる気しないんだよねぇ・・・って中学生か!と自己嫌悪です。

しかし、それが思うところ正直なのですから仕方ありません。色々と勉強したいことがあります。経済学、哲学、倫理学、宗教学、歴史学、心理学、政治学社会学、論理学、栄養学・・・他にも勉強でなくても文化活動をやってみたい。茶道、音楽、将棋とか。

そう考えると、人生というのは全く時間が足りないのだということに自ずと気付かされるのです。これまでの無限の時間はもう終わりを告げ、これからは少ない時間をいかに有効に使っていくかということにかかっている。制服を脱いだその日から、もう時計は動き出しました。

小学生の頃、時間は終わらなかった。漠然とした死への恐怖というものは、阪神淡路大震災以来持っていましたが、実際に自分が死ぬなんてことは考えられなかったし、いつまでもこの自由な時間が続くのだと思って、あるいはそのことにすら気付かなかったのかもしれません。

中学生の頃、小学生に比べて少しは成長したのか、死という時間の終わりをある程度は認識できるようになりました。人生は無限ではない、それくらいのことははっきりと意識できて、部活に入ったために毎日の出来事は総じてくくることが出来るようにはなっていました。しかし、それでも将来までの時間はまだまだたくさんあって、湯水の如く時間を使えるのだと思っていました。

高校生の1、2年生の頃、その日その日が充実していました。その日のためだけにその日があって、良い意味で目的意識は持っていませんでした。その頃の自分の知る世界が狭かったせいかもしれませんが、本当にやりたいこと、楽しいことがはっきりしていて、単に行為自体を楽しめました。

高校3年生の頃、受験勉強が始まりました。でも、受験勉強自体は決してつまらないものではありませんでした。大学に行くという大目的は持っていましたが、それ以上に、自分の実力を試すということを楽しんでいたと思います。幸いにして自分の考えていた進路と受験勉強は密接な関連を持っていましたし、日本史は勉強すればするほど点が取れるようになって、頂点を狙えなくはないと考えていました。だんだんと伸びていく実力を測る明確な定規があって、それに沿って考えていればよかったのです。必死だった分、振り返らなくて済んだのが良かったでしょう。

大学生になってから、時間の有限性を怖れるようになりました。繰り返される(と思っている)将来が目の前に近付いてきているからだと思います。就職してからは、多少のイレギュラーがありながらも、基本的に毎日は繰り返し。それでもその中になるべく良い物を手に入れようとして、世の大学生は日々努力しているのでしょう。もちろん、虹色の将来を目指して頑張っている人もいるとは思います。

しかし、自分にはこれまでの人生と、これからの想像の人生では全く違うと思っています。過去を美化してしまうのは良くないことだとは思いますが、これまでの人生は色とりどりに彩られていて、これからの人生はモノクロです。モノクロの中から一番良い道を選びたい、そう思っていることが、今を一生懸命に生きたいと思わない原因なのだと思います。

やりたいことはたくさんあります。しかし、誰でもそれをやりきることは出来ない。人生は選択の結果であり、選ばなかった選択肢を楽しむことは出来ません。それをどれだけ論じようとも無意味であることはわかりますし、自分が選んだ道を一生懸命進めといわれるのもわかります。でも、頭でわかっていても、納得できないことでもあります。

大人になるということは、この納得できない問題を無理やり納得するということかもしれません。あるいは時間の有限性を消化して、その上で最善を選ぼうとすることかもしれません。そういう意味では、まだまだ子どもだなと思います。乾いていくことが大人になることだということではなく、事実を事実として受け入れて、その上でベストを尽くそうとすること、まだ、事実を受け入れられません。

時間の捉え方、これは成長過程において重要な変化だと思います。自分の場合は、高校を卒業するまでとそれ以降で時間の捉え方が変わりました。ストップウォッチに例えていえば、高校までは純粋に数を数えているだけでした。つまり、徒競争の計測と同様に、0からスタートして時間が過ぎていく感じ。それに対して、現在は逆です。限られた時間が0に向かって迫ってくる。タイムリミットを強く感じます。逆算式の時間の捉え方。

それは同時に、死に対する恐怖の捉え方の違いにも表れてくると思います。小学生が抱く死への恐怖というのは、死ぬという行為自体が怖いのです、病気になって手術をして、散々辛い治療をして苦しみながら死んでいく。そのこと自体が怖いのです。

しかし、現在の死の恐怖は違う。確かに苦しみながら死んでいくことは嫌ですが、それ以上に人生が終わってしまうということが怖いのです。死後の世界があるかどうかは死んでみないとわかりませんが、少なくとも、これまでの日常を、その中に現れる多少のイレギュラーを楽しむことが出来なくなる。それが怖い。

生まれてきた以上、死は避けられない。そして、死がなかったとしたら、今以上に毎日がつまらなくなっているとも思います。死があるからこそ、時間に限りがあるからこそ、人は努力することが出来て、その結果を手にすることが出来る。ただ、それは同時に克服できない恐怖を抱かせる。それだけのことだと思います。

どれほど科学が進歩しようとも、この問題はどうしても解決出来ない。そういう意味でも科学万能論というのは間違ってるのではないか・・・なんて風にも思います。死を克服して、時間を意のままに操作できるようになったら、私は科学の威光の前にひれ伏します。もちろん、たくさんの苦しみから人間を解放してきた科学には感謝していますが。

この手の問題を見事に納得して、死んでいった人は今までいたのでしょうか。古今東西、聖人君子でも、きっと無理だったんじゃないかなぁ・・・

そんなことを考えた自主休講の午前でした。終わり。あぁ、何というモラトリアム。