郷に入っては郷に従え?

聞くところによれば、今日から梅雨に入ったそうだ。スーツを着る立場からすれば、雨というものは厄介極まりないものであるが、やはりこの時期に雨が降らないというのはさみしく感じられる。梅雨はやはり梅雨らしく、雨に恵まれるのが良い。早速、今日から折り畳み傘を持ち歩くようにしよう。

ここのところ、いやに眠かったので、授業中の読書が進まなかった。それが道徳的にどうとかはさておき、1冊読むのに1週間もかかってしまっては、どうもその内容の読み込みが良くない。本というものを読むのにもやはりリズムは大切なもので、一気呵成に読みきってしまったほうが良いのではないかと思う。そして、しばらくしてから考えるところあれば、もう一度読み直す。すると、前回読んだときには見えなかったことが、よく見えてくるものだ。

さて、それで今日読み終えたのは、先日購入した島崎藤村の『破戒』である。部落差別をテーマにした作品で、「新平民」つまり「穢多」の主人公が自分の身分を隠しながら生きていくことを描いている。現代社会において、特に東京に住んでいると、部落差別というものを体験する機会はほとんど無いと思われる。実際、自分もその手の差別に出会ったことはない。しかし、どうやら関西方面では未だに部落差別というものは根強く残っているそうだ。

どの世界に行っても、差別というものはなくならない。人間が自分と異質の存在を受け入れられないのがその原因であるが、それがわかっていてもなかなか上手く計らうことは難しい。部落差別でなくとも、外国人差別アイヌ差別など、日本国内にも様々な差別が存在していることは疑う余地も無い。男女差別などはその最たる例といえるだろう。

差別と区別を見分けることは簡単ではない。では何が違うのか、といえば悪意のあるなしだろう。悪意ある区別のことを差別と呼び、単なる便宜上の区分けを区別と呼ぶのだろう。感情が介入してしまえば、それがどれほど便宜的なものであろうとも、差別となる。言語学者ではないので、その違いはこの程度の定義でも問題ないはずだ。

戦後教育を受けてきた人は学校などで「差別はいけない」と教わってきたはずだ。福沢諭吉が「天は人の上に〜」と述べたのはあまりに有名だが、そう教え込まれてきた。その甲斐あってか、少なくとも自分は差別はしないようにと心がけているつもりだ。もちろん、聖人君子ではないのだから、他に対する優越感や劣等感を持つことはある。しかし、それはどうしようもないことであり、大切なのは優越感や劣等感を第一の基準にしないことだと思う。

最近よく考えるのは、このような理想はどこまで持つのだろうか、ということだ。例えば「差別は良くない」と考えているとして、実際差別している環境に突然放り込まれたら、その理想を維持できるのかどうか自信がない。『破戒』の中では、ごく自然に、当たり前のこととして部落差別が行われていた。住民の中に部落差別に対する背徳感などはない。むしろ、そのような場で人間の平等を説けば、逆に迫害されないとしたら、どうするだろうか。

自分だけは差別感情を持たないようにしよう、それも1つの戦い方だとは思う。しかし、明らかに差別は悪だとわかっているのに、正しいことを主張せずにいることは正しくない。何もしないというのは、悪を認めているのと同じであり、自分自身も差別に加担しているといわれても仕方ないのではないか。学校におけるいじめ問題で、いじめに参加しなかったが、止めもしなかった生徒はいじめに加担したことになるといわれる。それと似たようなことだ。

そこで葛藤が起こってくる。正義の主張を常に行うことは義務なのか、正義を主張することで自分が不利益を被るとわかっていないがらも主張しないといけないのか。誰しもが自分が大切に決まっている。ましてや自分が守らなくてはならない存在を持っているとしたら、そう簡単な話ではない。

これを現代でもありえる話に置き換えてみる。あと2年もすれば、恐らく多くの同級生は社会に出て行くことになるだろう。起業家にでもならない限り、どこかの企業に就職することになり、組織の一員として働かなくてはならない。

その勤めた会社で、だんだんと出世することになり、めでたく重役に登り詰めたとしよう。しかし、順風満帆というわけにはいかず、ある日重大な問題が発生する。ここ数年あった事例としては、不二家の賞味期限切れの原料使用問題、三菱自動車リコール隠しライブドア資金洗浄問題、村上ファンドインサイダー取引疑惑・・・社を揺るがしかねない問題が起こったとき、重役のあなたは何を考えるだろうか。

社会正義を考えるならば、何も迷うことは無い。自分の不正を潔く認め、再発防止、改善に身命を投げ打つべきだろう。しかし、それを世間に公表することで、数多くの従業員が路頭に迷うことになる。不正を行った責任は重役が取らなくてはならないが、従業員の生活を保障することもまた重役の責任だろう。もしかしたら、世間に公表しなくても、こっそり改善することが出来るかもしれない。そう考えることに、何の不自然があるだろうか。

そのときに、迷わず正義を実行できるかと問われれば、全く自信がない。自らの不遇を度外視しても、身内である従業員の失うものは大きい。しかし、放っておけば社会に更なる被害が訪れることになる。その上、重役会議の流れが不正隠しに向かっていたら・・・

この前、大矢とこんなことを話したら、彼は会社の不正に加担すると答えた。それは決して責められたことではないと思う。しかし、やはり自分を納得させることは出来なかった。