諦めるか、努力するか。3つ目の選択肢は何?

昨日の自分は、存在しないものを努力せずに手に入れようとして嘆いていただけに過ぎないことに気がついた。自分には決して才能があるとは思えないが、しかし努力することによってそれを改善することは出来るかもしれない。その可能性を全く考えていなかった。そしてもう1つ考えが及ばなかったのが、時間の問題だ。

よく大学受験の文章で「いま−ここ」という構造が出てきた。今となってはそれが何の話だったか思い出すことは出来ないが、非常に重要な視点であると思う。自分を含めて、大抵の人は時間をたくわえることに躍起になっている。将来楽をするために、あるいは輝かしい未来を手にするために、現在の時間を使っている。生産性の低い時間を過ごしてしまうと、自己嫌悪に陥るのはそのせいだろう。

生産性の高い時間を過ごす。それは良いことだ。少なくとも悪いことではない。時間の使い方には、4種類あるように思える。その4種類はビジネスの優先順位と同じようなもの。ビジネスの場合は、緊急性があるか無いか、重要か否か、という4つの視点だ。もちろん一番大切なのは、緊急性があり、かつ重要な案件だ。次に大切なのは、緊急性は低いが、重要であることらしい。

さて、では時間の使い方の4種類は、生産性が高いか低いか、楽しいか楽しくないかで決まると思う。当然の如く一番大切なのは生産性が高く、かつ楽しい時間に決まっている。誰がつまらない時間を過ごすことを望むだろうか。では2番目は何だ?生産性が高くても楽しくない時間か、それとも楽しくても生産性が高い時間か。

1番目の時間の使い方が最上なのは言うまでもないが、2番目は時と場合による。人生をかけた受験前であれば生産性を優先しなくてはならないし、そうでなければどちらを優先しても良い。要するに時間をかける行動に何を求めるかだ。

行動自体、あるいは時間そのものにその意味を求めるのか、それとも行動の結果にその意味を求めるのか。ネイティブアメリカンは行動自体にその意味を求めるらしい。人間によって作られた結果などというものは、長い目で見れば何の価値も無く、その時間にこそ意味がある。抽象的過ぎてイマイチわかりにくいのだが、恐らくこういうことではないかと思う。

人生を仕事に捧げ、成功を収めた大富豪がいたとする。その大富豪が死の床で何を望むのか。仕事に生きた彼には財産はあるが、人間としての財産と呼べるものは無かった。家族と過ごす時間は無きに等しく、自分に近付く人間は金目当てではないかと疑った。

果たしてこれが幸せと呼べるのか。一生という時間をかけたこの結果に意味があったといえるのか。そういう問題なのではないか。さらにその結果が失敗に終わったとしたらもう目も当てられない。。。

というのは近代社会に汚染された人間の考え方らしい。そもそも成功だとか失敗だとかが問題なのではないそうだ。成功して喜ぶのも、失敗して落ち込むのも全て一緒だと。時間そのものを楽しんでいない限りは、何ら違いはない。

さっぱり意味が分からないと思って、さらに読んでみると、ヒントになる例が1つ出てきた。かの有名な松尾芭蕉の『奥の細道』である。日本人ならお馴染みだ。

松尾芭蕉は、日本三景のひとつである松島を目的地として旅をしていたそうだ。しかし、芭蕉は松島では俳句をほとんど詠まなかったという。松島がゴールだとすれば、松島に到達したときの気持ちというのは感無量ではないか、と思うのだが・・・さらに現代と違って徒歩であるから、そこまでたどり着くための努力をかんがみれば、叫びだしたいほどである。青春切符を使って、博多まで行っただけでも自分たちは叫んだというのに。

それにも関わらず芭蕉の旅が充実していたことは、そのときの俳句が教科書に載っていることからも証明されている。なぜ松島に着いたことにそれほどこだわらなかった芭蕉の旅が充実していたのかということは、何となくわかるのではないかと思う。

つまり、芭蕉は旅の意味を松島に求めなかったからだ。旅をすることに対して意味を求めたのであり、松島に行って綺麗な風景を眺めたいという願望があったわけではないのだろう。ネイティブアメリカンの言う時間や行動そのものに意味を見出すというのは、そういうことらしい。

そういわれてみれば、確かにそのような時間そのものを楽しむ感覚というものを、自分はあまりに軽視していたように思えてくる。何に対してでも生産性や将来的な意味を見出そうとし、生産性の低い時間に対して価値を考えようともしなかった。全てに存在それ自体の価値を認めることが出来なければ、せっかくの人生を楽しめないというのは納得できる気がする。

ただ、かといって100%その通りだなどとはいえない。江戸時代ならまだしも、高度資本主義社会である現代日本において、生産性を気にも留めずに純粋な価値だけを追っかけていたら、将来的にその価値すら追いかけることが出来なくなるのは自明のことである。お金を稼ぐことに何の価値があるのかと疑いたくもなるのだが、お金なくして生きていくことが出来ないのもまた事実だ。それを受け入れる必要はある。

両極端になってはいけないということだけは、常に頭に留めておこうと思う。将来別れてしまうかもしれない恋人との楽しい時間を、将来のためにならないという不安から台無しにしてしまうのはあまりに勿体無いことだ。「いま−ここ」の時間や行動そのものを純粋に楽しんでこそ、充実した生活を送れるようだ。将来に対して備えることは重要だが、気ぜわしくなりすぎると、いずれ後悔することになるかもしれない。

やはり先人の教えというものは深い。深い割には実体として現われはしないので、ついつい落としてしまいがちだが、人間として深くなるためには、近代社会において一見価値の無いものに対して価値を見つけようとする志を忘れてはならない。それがわかっただけでも、十分だと思った。

校長がよく人類最大の発明はグーテンベルク活版印刷だといっていたが、全くもってその通りだと今更ながら実感する。自分の狭い体験だけでは知ることの出来ないことを本は教えてくれる。読書は人生の栄養だとか言われるけれど、少し心が広くなった気がします。まぁ大学の授業中に心を広くしているのはちょっとアレかもしれませんが。





ところで、空を飛びたいと願ったライト兄弟が飛行機を作って空を飛んだように、願望の実現には自分から動かなきゃダメさといっていたマンガはなんだったっけ・・・?いたく感動した台詞だったんだけれども。。。