何が本物で何が正しいのか。

世の中には、最高に幸せな状態の人がいて、誰よりも不幸だと自分で思っている人もいる。食べすぎ飲みすぎで吐く人もいる一方で、食べ物がなくて餓死したり、拒食症の人もいる。椎茸が好きでどうしようもない人もいれば、見るのも嫌だという人もいる。

今、自分が何を求め、何をすべきなのかがわからない。自分で何をしたいのかがわからない以上、誰にもそれはわからないことだということはわかっているけれども、それを片っ端から見つけていくのは困難を極める。こんなときに人は、超越的な自然を見たりしたくなるのだろうが、自然は何も解決してくれるわけではない。超越した存在の前に、自分の悩みを忘れてしまうだけで、悩みがなくなるわけじゃない。

自分とは一体何者なのか。結局はそんな疑問に集約されてしまうのかもしれない。自分は自分だ、などというのは単なる逃げで、自分自身をすら説得できない。思うのは、自分とは今までの行動の積み重ねであり、それ以上でもそれ以下でもないのではないかということだ。性善説だろうが性悪説だろうが、どちらでも構わないが、人間の性質を決めるのはどのみち環境だ。

どんな家庭に生まれたのか、望まれて生まれてきたのか、どんな人が周りにいたのか、どんな言葉を投げかけられてきたのか、どんな躾をされてきたのか、どんな学校に通ったのか、どんな友達がいたのか、どんな会社に入ったのか。

これらの環境が変われば、自分などという存在はたちまち変わってしまうことだろう。環境を超越した自我などというものは存在し得ないはずだ。だから、自分という存在はそう強いものではないのだろう。ちょっとした経験や変化で、いとも簡単に変わっていく可能性が多分にある。

だとすれば、現在の自分がわからないというのはどういうことなのか。今までの環境が、それらの環境下で自分の選んだ行動が自分を作り上げてきたとして、その状態すらわからないのは、今までの自分の行動にどれほどの価値があったというのだろうか。




「前を向いて進んで行け」



「光の差すほうへ進め」



「自分の信じる道を行け」



そんな台詞は世の中に溢れている。でも、「前」はどこにある?「光」はどこから差してくる?それがわからないのに、そんなことを言われても何にもならない。自分が向いている方向が前なのか、前を向いているつもりで横を向いてはいないか、自分を信じられなかったら、自分がわからなくなってしまったら、どこに行けば良い?

今まで意識的にしろ、無意識的にしろ作り上げてきた自分がわからなくなるということは、これからどこに行けば良いのかわからないということは、少なくとも現在までの自分には正しさというものは存在しないのかもしれない。しかし、その責任はほとんどが自分にあるのであって、誰かのせいにすることは出来ないし、意味もない。今更責任の所在を確かめたところで、どうにかなるものではない。

まさに暗中模索という言葉がおあつらえだ。こんなつかみどころのない悩みを誰しもが抱え、克服していくのだろうか。

この悩みの本質的な解決を他者に求めるのは、果たして正しいのだろうか。誰かから必要とされたり、感謝されたりするということは、喜びだ。喜びなくして人生を充実して過ごすことは出来ない。しかし、それももしかして逃げではないのか。

今、一番落ち着くのは、バイト中かもしれない。もちろん、友達と話してたりするときは楽しいし、人生について議論することは充実しているように思える。大学の授業での発表に備えて、グループで集まって話し合うことにも意義は感じる。そこでは自分が必要とされているからだ。

マイナス方面の考えで、さらに傲慢な意見だとは思うが、今、バイト先の塾から自分が居なくなったら、困ることになるだろう。受験学年を担当していて、塾内のほとんどの社会を担当している自分がいないと、変わりを探してくるまでは困ったことになる。実に不遜ではあるが、それも事実でもある。その必要性や、自分の価値が自分を支えてくれるとしても、何ら不思議なことではない。

自分を必要としてくれるのは、仕事かもしれないし、恋人かもしれないし、家族かもしれない。仕事の場合は単純だが、家族の場合は少し複雑だ。役割としての家族、つまり稼いでくる親などの役割として必要とされるとする。精神的な部分は勝手が違う。

人間は、誰もが自分を特別な存在だと信じている。何か自分には他人とは違った才能があって、自分にしか出来ないことがあると信じている。そう信じなくてはやりきれないからだ。しかし、決してそんなことはなく、才能を持たない多くの人が誰かの歯車となって生きているに過ぎない。何かがあって壊れてしまったら、他の人にその役割を担わせれば済むだけの話だ。その人にしか出来ないことなど、現実問題としてほとんどありはしない。

仕事を自分が辞めたとすれば、そこには自分の代わりに誰かが送り込まれるだろう。最初は上手く行かないだろうが、時間が過ぎるにつれて誰かがその穴を絶対に埋めてくる。もちろん、中小企業のワンマン社長や企業を支える最高の技術者が突然いなくなったとしたら話は別だが。

人は一生のうちに幾度となく恋に落ちるだろう。時には振られてしまうこともある。しかし、次があるということは、その相手は自分にとって必ずしも必要だったのではなく、誰か他の人で満たすことが出来た存在に過ぎないのではないか。ただ、その別れがあまりにも突然だったり、死別だったとすると、回復までに長い時間を要することになる。下手をすれば一生の問題だ。

家族の場合だけは少し違う。特に親子の場合だ。夫婦はある意味恋人のような形式であるので、代わりがきくといえばきく。血を分けた親子というのは、この世にそれに代わる存在はいない。義理の親がどれほど子どもを可愛がっても、血をつなげることは出来ないからだ。これは決して義理の親子を否定しているわけではないことをわかってもらいたい。家族だけが最後の家だという気持ちになりやすいのは、そういうところから来ているのではないかと思う。

血のつながりという特別な関係を除いて、自分の存在を他者に求めるということは、やはり本質的な解決にはならないのだと思う。他者に必要とされているとしても、それは一時的なことであって、いなくなったらいなくなったで対応策はいくらでもうてる。だからこそ人間社会は発展し続けてきたのだろうが、それはそれで飲み込めきれない面もある。

自分が何よりも家族の形成に憧れているのは、こういった不安を抱えているせいかもしれない。それに今気がついた。取り替えることの出来ない存在になることで、自分の存在を規定し、安心したがっているのだろう。自分には才能がないなどというのも逃げといえば逃げだ。さらに自分はその安心のために何かをしているのかといわれれば何もしてないのもまた事実だ。まぁまだ大学生であるからして、その努力が必要なのかどうかは別問題だが。

こんな雨が降る日に、人生論を語った本を読んでいると、ふと自分の存在を疑いたくなってしまうようである。




気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)

気流の鳴る音―交響するコミューン (ちくま学芸文庫)




難しくて半分以上理解できないのですが、新しい視点がいくつも出てきます。