聖人君子と平々凡々

小説、特に宗教関係だとか教育関係の小説を読んでいると、そこには時として聖人君子のような人物が登場する。自分が侮辱されても決して怒らず、みんなのために尽くし、いつも笑っている。今まで生きてきてそんな人にはお目にかかった覚えはないが、しかし、人間はこうあるべきだ、こうなりたいという理想ではある。

自分の意見に固執することなどなく、いつも相手にとって最善の道を選ぶようにすることが出来る。目先の利益に捉われず、将来を長い目で見ることが出来る。これらはよく、経営者に求められる資質として紹介されていることがあるが、もともとは人間の道徳として説かれたものではなかったろうか。噛み砕けば、相手の立場にたって考えなさい、今したいことだけをするのではダメ・・・言われている当時はさっぱりわからなかったけれど、少しは成長してみてそれらの言葉の価値がわかるようになってきた。

よくよく考えてみれば人間として当たり前の道徳なのだが、清水が「単純と簡単は違う」という名言を残したように、その実行は決して簡単ではない。自分が冷静なときは大丈夫なのだが、何か事件が起こったり、カッとしたときにそれを守ることが出来るのかと問われれば、間違いなく出来ないだろう。そのことが最近のいくつかの事件からわかり、自分の不甲斐なさを再確認させられることになった。

例えば、先日起こった高校野球の特待生問題。「野球にだけ特待生制度がないことがおかしくて、今回の件で特待生制度を承認すべきだ」という意見も当然あろうことと思われるが、そんなことは今はどうでも良い。問題は野球憲章なるものに特待生制度が禁止されているにもかかわらず、それを知りながらも特待生制度を存続させてきたことである。実情に合わなかったとしても、それが改正されるまでは、ルールには従わなくてはならない。教育現場であるならばなおさらだ。

教育機関である高校が公然とルールを破っていたことに対し、厳しい対処がなされるのは当然だ。その一例として専大北上高校は野球部を解散させた、ということがあった。さすがにそれは現役部員が可哀想だが、学校側の決意は相当に堅かったのだろうと考えた。そのとばっちりを生徒が受けるというのはいただけないが、必要といえば必要だ。難しいところだと思う。

その専大北上が、解散からまだ2ヶ月程度だと思うが、野球部を再結成し、高野連に登録を済ませたというニュースがあった。

理想から言えば、野球部員には罪はないのだから(これもまた色々と意見はあるだろうが)、特待生以外の部員が野球が出来るようになったことは喜ばしいことである。野球部員は甲子園出場を目指して毎日汗を流しているのだから、学校側と特待生本人の不手際で、それ以外の部員の将来が奪われることはおかしいといえばおかしい。連帯責任といえばそうなのだが、仮に予選にすら出場できなかったら、最終学年にとっては一生悔やまれることとなる。だから、やはり専大北上高野連再登録、予選出場はギリギリのところで正しかったのだと思う。

しかし、それでは納得できない自分もいる。むしろその気持ちの方が強い。野球部を解散したということは、それなりの覚悟があったからに相違ない。それをたった2ヶ月で手のひらを返すような再登録を行うというのは、高校野球にとって悪しき歴史となりかねない。高校野球全体のことを考えれば、専大北上の再登録を高野連は断じて認めるべきではなかった。そうも思うのだ。

ここで考えるのが、高校野球と、高校教育と生徒の思い出のどちらを大切にするべきかということだ。高校教育の立場からすれば、関係のない(とも言い切れないが)生徒から最高の経験を積ませる機会を奪ってしまうことは忍びなく、正しいとはいえない。しかし、高校野球の伝統や秩序と言う点から考えれば、間違いなく出場停止にすべきだ。

自分は教育者を目指しているのだから、前者の立場を取るべきだと思う。無関係の生徒の将来を考えた場合、出場停止は悪影響を及ぼすだろう。一生懸命練習してきたのに、学校のせいでその努力が水の泡になったとなればどう思うか。酒の肴に自分の不幸を語るのが関の山だろう。だから、高野連の再登録は正しい。そう納得すべきなのだ。

しかし、そうは思えない。どれほど他の部員が可哀想であっても、ここは断じて厳しい措置を取るべきだという考えが深く残る。マスコミは高校教育と高校野球の序列も考えずに物事を論じがちだが、自分にもまだまだ教育第一の考え方が身についていないのだと思う。

いや、実に難しい問題だとは思う。デスノートの松田が警察官のあるべき姿と、弱者を救うキラの立場の間をふらふらしていたのと同様に、あるべき姿と現実が一致しないことで悩むことは沢山ある。あるべき姿が他の状況では必ずしも正しいとは限らないのがその原因であるが、どこまで公を通し、どこから私を出して良いのか。前もこんなことで悩んでいたはず。

結局、人格的な部分の話なんだと思う。自分の性格が自分の理想像に合っているかどうかと言う問題。たいていの人が自分を理想の人間だと考えることはないだろうけれど(自分としてはそう考えている時点で理想じゃないしなぁ…)、やはりいつまでも追いつくことの出来ない理想と言うものは、あるときには目標になり、あるときには虚無感を生み出すのだろう。自分の場合は、理想に追いつけないという以前に、理想と違う方向に進んでいるのではないかという問題があるわけだが、悪く捉えればいつまでも悩める。

将来を本気で決めなくてはならない時期だからこそ、自分のあり方に悩む。そしてさらに、今なら違う道を選ぶことが出来るからこそ、悩む。盲目的に進むべき道を信じてきたことが逆に仇となった形だ。もっと頭を使っていかなくてはならない。