僕、ウルトラマンになる!

幼稚園の頃、男の子であれば、大抵の少年達が特撮ヒーローに憧れたのではないかと思う。悪と戦い、正体を明かさずに地球の平和を守る。そんな姿に憧れを抱かない方が不思議だ。もちろん、悪に憧れるというひねくれているのか、それともある意味正統派なのか、そういうやつもいた。サンタクロースの存在を幼稚園生同士で話し合っていたのは覚えているが、僕らは本当にヒーローの存在を信じていたのだろうか。

恐らく、信じていなかったのだと思う。どう考えても自分の周りに怪獣が現れるわけがないし、何よりもそんな体験をしたことがなかったのだから、テレビの中の出来事だと多くの人は思っていたのだろう。それでも正義×悪というわかりやすい二項対立は幼児の心にも受け入れられやすく、また影響も与えやすかった。

そんな心をまだ忘れていないのか、今でも自分はテレビや映画や小説からの影響を多分に受ける。それも不良に憧れてタバコを吸い始めるとかいうちょっとしたことではなくて、職業まで含めた人生単位の問題に悩んでしまうことが多い。果たして自分が歩んでいる世界は、本当に自分が求めているものなのか、そんな迷いを今更になって持ち始めた。ところで、自分が教職を目指しているのは、決して『GTO』の影響ではないことを宣言しておく。

踊る大捜査線』を見れば警察官に憧れるし、『交渉人真下正義』を観れば交渉人に想いを焦がせ、『YAMATO』を観れば自衛官、『海猿』なら海上保安官だ。自分でも嫌になるほどバカだと思う。格好良い姿に憧れるという基本姿勢は幼稚園時代から進歩していないらしい。バカは死ぬまで治らないとか。あと5年早く『プラネテス』を読んでいたら今頃宇宙工学を目指していたかもしれない。JAXA万歳!

とはいうものの、ここまで進んできてしまった以上、引くことは出来ないし、やりたくもない。今から国家公務員を目指しても時間の無駄になるだろうし、自衛官・警察官・海上保安官は家風的に許されない。だから、どうしても歴史学に進む以外に道はない。とりあえず専門も決めたことだし、大学院受験を何とか突破して、専門の勉強をする。それが最も「確実」だ。まぁ「確実」が「最善」かどうかは進んでみないことにはわからないが。

さて、現在悩んでいるのは、その「確実」な道のさらなる分岐点だ。東京に残るか否か、といったほうが良いかもしれない。これから間違いなく大學受験指導が出来るようにその勉強をするのだが、その能力が無事身についたとして、それを使うのか。「教師」にとってのあるべき姿とはどのようなものなのか、そういう疑問にたどり着いたのかもしれない。

「教師」と「塾講師」では決定的な違いがある。収入などの点からすれば地方公立高校の一教師と一流進学塾の有名講師では桁数が変わってくる。だが、しかし、そんなことは些細な違いでしかない。もっと職業の本質が違うと思う。

それは「学校」と「塾」の違いに起因するのだが、教師は単に勉学を指導するだけではなく、恐れ多くも生徒という1人の人間の人格形成に大きく関わり、「間違った」方向に生徒が行かないようにすることも重要な仕事である。それが「塾講師」との最大の違いだ。そして、自分は「教師」を選んだ。それは一体何を意味するのか。

医者を本気で目指している人は、人道的見地からの理想と、それに対する現実とのギャップに悩んだことがあるのではないだろうか。医者というものは人間の命を扱う職業であるのだから、どんな人間であっても、どこの地域であっても、金持ちでも貧しくても、患者である以上その命を救いたいと思う。直接的に人間の命を救うことこそが、医者の使命であると。

しかし、大学に残らないことには研究を続けることは出来ない。まさに『白い巨塔』で里見が悩んでいたのと同じようにだ。大学に残れば自分の望む研究を続けることが出来るが、そこで患者を見るとしても、そこには比較的恵まれた患者ばかりであり、山の奥で救急車の到着にもじっと待ち続けなくてはならない患者を助けることは出来ない。無医村に出向いていけば、その地域の人々を救うことができるが、それでは医者としての研究を道を諦めることになってしまう。

こんな葛藤に悩まされた医者はきっとたくさんいる。医者というものは、命を扱う「聖職」である以上、医者としての技量だけでなく人格者でなくてはならない。哲人である必要はないが、少なくとも自己の利益に固執するのではなく、公の精神を忌憚なく発揮できるような姿勢は必要だろう。

教師も、自分で言うのはおこがましいとは思うが、「聖職」だ。だから、最低限の人格者でなくてはならないし、さらに教師としての技量も当然必要だ。こういった点でも、個人として医者と共通点があるが、職業上の共通点というものもあると思う。それこそが、理想と現実との戦いだ。

自分は、大学受験、大学での勉強で、それまでの教科書に収められた狭い歴史からある程度抜け出すことが出来た。その喜びと感動は今でも持っている。歴史学がどれほど血の通った学問であるかということを再確認できた。だから、これからの歴史学を専門としてその研究を続けて行きたい。そして出来ることならば、そこで得た知識や技術、感動を狭い歴史に閉じ込められている高校生に少しでも伝えていきたい。

それは決して不可能な夢ではない。今からでも十分に実現可能だ。大学受験指導を通じて、少しだけでも世界を拡大してやる。しかし、教科書を超えた広い学問を教えるためにはある程度の環境が揃っていなくてはならないのではないか。例えば、生徒のやる気、素質、教室環境、学校の立地、同僚の態度・・・仮に自分の能力が十分に足るものであると仮定しても、そういったものは揃っていてほしい。特に新任の頃はそうだろう。

だが、それが本当に教師のあるべき姿なのだろうか。生徒や学校を選ぶ権利が教師にあるのだろうか。日教組は教師を「聖職者」ではなくて「労働者」だと規定している。自分は教師たるもの、身分は「労働者」で姿勢は「聖職者」たるべきだと思っている。「聖職者」の権威を振り回そうなどとは思わないが、生徒のために命を懸けるくらいの覚悟は当たり前だろう。

だから問題になる。「生徒のために命を懸ける」などと偉そうなこと(実際恥ずかしいのですが…)を公言しておきながら、「環境が良いところに就職したい」と望むなんて、明らかに矛盾している。「塾講師」でなく「教師」である以上、自分の勤務地に粛々と赴くべきなのではないか。生徒や学校が、教師の側から捨てられて良いわけがない。

極端な話、孤島の分校勤務に臨んで行くのか、東京の超進学校勤務を望むのかという悩みだ。無医村に行くか、大学に残るかという悩みと同じというのは、そういう意味だ。自分は勉強を教えたくて教師になりたいと思ったのか、それとも生徒と関わりたいと思って教師を目指していたのか。それがはっきりと見えてこない。だから今でも迷うのだと思う。一度どちらかの道を選んでしまうと、もう1つの道は閉ざされてしまう可能性が高い。それが怖い。

恐怖からでは、良い考えは浮かんでこない。恐怖から浮かんでくる考えとしては、(社会に出たら高校で習ったことなんて・・・)といった類のものだ。歴史学を学ぶ意味を生徒に問われたときに、はっきりと答えられる自信がないという恐怖からも来ているのだろう。しかし、そんな考えから自分の将来を選ぶわけには行かないし、それが生徒の人生に多少なりとも関わるのであれば、それこそ自分ひとりの考えではないのだ。

「教師」として何を望むのか。その理想と現実との対立の悩み、打算的でありたくないと思いながらも、打算的に生きないと怖い。自分はこれから、どうするべきなのか。残りの人生40年以上を決定する時期であるだけに、決めるのが怖い。だが、怖いだけでは何も進まないこともわかっている。そのジレンマが今の自分を揺さぶってくる。強くありたい。