ロケットは進むしかないから幸せなのか、不幸せなのか。

秒速5センチメートル』という映画を観に行った。先日の『時をかける少女』とジャンル的には同じということで、廣瀬と共に渋谷に行ったのだが、実に感慨深い映画だった。その一言で表現してしまうことは、映画の内容に対して失礼ですらあるような気がするが、しかし、考えさせられた。

内容は小学生〜社会人までの「恋」を描いたものである。お互いを思う純粋な気持ちがありながら、それを引き裂いてしまう環境がある。ここまではよくあるテーマであり、決してめずらしいものではない。ただ、あまりそのような恋愛小説や映画というものを観ないので、自分にとって目新しいといえばそうだった。だから、響くものが多かったのかもしれない。状況的には『春の雪』に近いかもしれない。『春の雪』の方が余程壁が高かったのだけれど。

純粋な「恋」というものは、人の心を打つ。巷では韓流ブーム以来、「純愛」ブームが来ているようだが、どうも「純愛」と「純粋な恋」というものは違うと思う。このような抽象論を唱えることは、本当に無意味なことであると思うが、自分の考えをまとめるためには文字にするしかない。そうである以上、本意ではないが文字の定義というものを決めざるを得ない。

では、「恋」と「愛」は何が違うのか。これらをまとめて「恋愛」という言葉があるのだから、そもそも似たような意味の言葉なのであるが、しかし、ここには決定的な差がある。

わかりやすい例を挙げれば、「友情」は「愛」の一種といっても良いが、それは「恋」ではない。苦境の人を助けることは「愛」であって「恋」ではない。つまり、定義の幅が全然違うのだ。さすがに「友情」が「恋」だったら嫌な気がする。。。

では、「恋」は「愛」の一部なのかというと、そういえないこともないと思うが、自分はそうではないと思う。前にも書いたことがあるかも知れないが、「恋」とは「本能」であり、「愛」とは「理性」なのではないだろうか。「いやいや違うでしょ〜」と思う人も大勢いると思うけれど、とりあえずそういうことにしておく。

小説でも映画でもマンガでも「本当に好きな人の好きなところというものは、挙げることができない」という台詞がある。実際そうだと思う。明確に好きなところがあるということは、逆に言えばそれを失ってしまったその人本人には価値がない(というと大げさだが)ということになってしまう。「本当に好き」というのはトータルに考えて好きだということだ。

これが「恋」だと思う。物事を分析的に捉えるのは理性の役割である。だから、「恋」は「理性」ではない。「恋に落ちる」という表現があるが、「落ちる」というものは狙った行為ではない。ついついそうなってしまった、うっかりそうなってしまった、そういうことになる。穴に落ちるというのは、単に注意力が散漫であっただけだが、「恋に落ちる」というのはつい「本能」が出てしまうということではないか。

それに対して、「愛」とは「理性」なのだが、見ず知らずの難民を助けるために募金する気持ちは理性がさせるものだ。それは「愛」だろう。性善説の立場からすれば、「助けたい」という気持ちは本能的なものかもしれないが、それを行動に移させるのは「理性」だ。

もちろん、人の気持ちをそんな単純に区分けすることなど出来ない。「親子の間の愛情は本能ではないのか」と言われれば、それは本能だと思う。かなりの矛盾が生まれてしまうことはわかるが、ここでは「恋」を論じたいので血の繋がりのない人間関係に限定して考えていこうと思う。

秒速5センチメートル』が心に響くのは「純恋」だからだと思う。狭義の「愛=理性」が介入しないからこそ美しいのだと思う。「愛」がない話が美しいわけがないじゃないか!といえなくもないが、とりあえずそれは置いておこう。

「純恋」には計算された行為というものがない。


「どうすればあの人は振り向いてくれるのか?」

「どういう表現を使えば相手は喜んでくれるのか?」

「どこに行けば楽しく過ごせるだろうか?」


最初に恋に落ちたときに、そんなことを考えるだろうか。そんな余裕すらないと思う。「相手に振り向いてほしい」という気持ちが強すぎてその方法を考えない、というよりも考えられない。一緒にいられればそれだけで十分幸せで、隣の席になるだけで緊張し、話しかけるときに声が震えてしまう。それこそが「純恋」なのではないか。誰しも一度は経験があることと思う。

秒速5センチメートル』の第1話が美しいのは純粋に「相手に会いたい」という気持ちを抱いていたからだ。それ以上の打算的思考を持つこともなく、本能に従った「恋」に苦難が加わり、それを克服したときに人は涙してしまうことがある。

しかし、「純恋」というものは長く続くものではない。慣れてしまうせいで、「純」が長く続くことはない。これは残念なことといえば、残念だが、致し方ないことだ。そこで必要になるのが「愛」だ。本能が欠けて出来た隙間を、打算的(というと言葉の響きが良くないが)思考で埋めていく。ある意味空気を読む能力のようなものがついてくるのかもしれない。

「純恋」が「恋愛」になったときに、その二人の関係がどうなっていくかということが、今後の二人の将来を決めていくのだろう。上手く「恋愛」のレールに乗れるのであれば、その後も上手く行くであろうし、上手く「恋愛」が出来なければ遠からずして別々になってしまう。それはどうしようもないことだ。

人間は、自分が持っていないものやかつて持っていたモノや気持ちに憧れる。『秒速5センチメートル』の場合は、第1話で「純恋」を描いたことで、観客を憧れさせ、第3話で現実の前に「純恋」が失われていくところに共感を感じさせる。憧れと共感によって人の心を引きつけるのだろう。

人間は理性を持たずして生きていくことは出来ないが、理性を持つことによって「純粋」を失ってしまう。人間関係に限れば、一度リセットされることで図らずも再び純粋を手にすることは出来るが、それもいずれ失われていく。必要なことであることはわかっていながらも、そこにどうしようもない哀しみを感じる。人生というものは、本当に上手く行かないものだと思う。

上に書いたように、こんなはっきりと線を引いてしまうのは矛盾を生んでしまうのだが、そういうことなんだと思う。次に再び「純粋」を手に入れることが出来るのは、一体いつになることだろう。。。







とりあえず山崎まさよしが心に響いてどうしようもないのには、困ったものです。