ジェンダーと善と悪

ジェンダーについて考える会第二回というわけですが、正直に言ってよくわかっていないのが現状です。簡単に説明することならば何とかなるかもしれないけれど、しかしそれから結論や考察を導き出すには足りない。そもそもジェンダーを論じること自体の意味をそれほどよくわかっていないのです。

ジェンダーは存在する」ということはよくわかる。ジェンダーの視点から日常を眺めてみれば、いたるところにジェンダーの要素が固まっていることに気付かされ、それまで気にしないで生きてきたことが不思議に思えるくらいだ。小学生のランドセルはどうして男子は黒で、女子は赤なのか。トイレもそう。そのような色使いには確固とした意味は認められないらしい。

問題は、具体的な事象をジェンダーか否かを判定することではない。今、一番気になるのが、ジェンダーは善悪の判断を下すべきなのかどうかということである。さらにその大元をたどって、生物学的性差との因果関係が強いジェンダーをどう判断するかということも大切だと思う。

例えば、生物学的性差に大きく関与していると思われるのが、職業の分野である。特に軍人の分野だ。軍人は古来、男性の職業であり、女性はいわゆる「銃後の守り」が役目であった。戦前には男子にのみ兵役が課せられていたし、武士は男性だった。これはどこの国でも同じ道を歩んできたのではないか。

その理由はいたって単純で、男性のほうが生物学的に強いからである。同じように育ってきたのであれば、男性が女性を力で打ち負かすことが出来る。ということは、女性を戦場に出すことは女性自身のためにならないばかりか、軍全体に悪影響を及ぼすことになるかもしれない。だから男性は戦場に赴き、女性は戦争の補助的役割を任されてきた。

これは実に合理的なことだと思うし、決して不自然なことではない。しかしこれもどうやらジェンダーらしいのである。確かに、軍人や職業といったものが人為的なものであり、社会的・文化的背景があることを考えれば、ジェンダーなのだろう。それもわからないことはない。そこまでは特に問題ではないのである。

問題は、これをジェンダーとして捉え、撤廃すべきだとなったときの話である。現代、女性軍人が多数存在しているのは、幸か不幸か軍事技術の発達によるものであり、昔に比べて個人の能力というものが求められなくなったからだと考える。極端に言えば、日本刀を用いて肉弾戦を行うのなら男性が圧倒的に有利だが、ミサイルの発射スイッチを押すのは男性だろうと女性だろうと関係ないということだ。だから、現代の軍隊においてはジェンダー問題というものは解消されつつあるのかもしれない。

話がずれてしまった。軍隊におけるジェンダーを撤廃すべきかどうかと問われれば、自分としては撤廃すべきではないと考える。それはあくまで生物学的性差に密接に関連したジェンダーだからである。会社で女性はお茶汲みをすべきだというのとはワケが違う。ジェンダーであるからといって、一概に撤廃対象とはいえないのではないか。

このような難しい問題を、現代女性学者やジェンダー学者はどのように捉えているのだろうか。ジェンダーと生物学的性差の境界線をどこまで引くのかという問題であるが、科学の発達に伴って今まで以上に生物学的性差が科学的な意味で拡大した場合はどうするのか。それを知りたい。

どう転んでも男性に子どもを産む能力を求めることは出来ない。女性にとって、出産に伴う社会的な損失というものはある程度存在するのは仕方ないといえば仕方ない。産むことが強制されていない限りは、出産を選択した犠牲を受け入れる気くらいは必要だろう。「男は座ってれば良いんだから良いよなー」と言われてもどうしようもないのである。

ジェンダーの発見に伴って、解決すべきなのは社会的・文化的制度であることはわかりきっている。女性が子どもを産むことで職場を離れなければならないのであれば、積極的に復職支援をするべきだろう。そのために男女共同参画社会基本法が制定されたわけだが、その効果は遅々としながらも広まっているように思う。これまで2600年近くかけて培われてきた日本の習慣というものを打ち破ろうというのだから、時間がかかるのは当たり前だ。

これはやはり男性としての意見なのだろうか。まだまだ男性優位な社会であることには変わりないと思うが、それに危機感を覚えないのはある意味特権階級だからなのかもしれない。女性側からすれば、いつまで経ってもジェンダーの解決は進まず、生きづらい世の中なのかもしれない。

ただもやもやとした気持ちが心の底によどんでいるというのも事実だ。スウェーデンでは、企業の役員の半数を女性で占めるように法律が定められたというが、明らかにこれは行き過ぎだと思う。企業の活動の自由を制限しているし、能力のある男性が余ってしまったらそれは企業の損失になる。

結局、男女平等の実現を目指そうということなのだが、スウェーデンの例は「結果の平等」を求めている。運動会で徒競争のときに手をつないでゴールする馬鹿げた習慣と同じようなものだ。悪平等といっても良い。必要なのはあくまで「機会の平等」であって、結果の平等のために機会の平等を崩すべきではない。とは言っても、機会の平等の選定には慎重を期すべきで、何もかもというわけには行かないだろう。

ジェンダーと合理論との折り合いをどこでつけるのかということも大きな問題だ。これらの解決こそが、真の意味での男女平等に繋がっていくのではないかと思う。