グローバリズムと僕

昨日は23時過ぎに既に床に就き、今日は7時には起床していた。といって急いでやることも無かったので、甘夏とヨーグルトだけの朝食を済ませ、本を読んだ。昨日から春期講習の最終タームが始まったのだが、先週までと違って10時から授業だからある程度ゆっくりできる。

今日は燃えないゴミの日だ。生ゴミなどもたまってしまっていたので、出しに行かなくてはならない。図らずも早起きをしていたので、ゴミを出しに行く時間は十分にある。ゴミを出しに行かなくてはならない。これを逃したら次は木曜日までゴミの日は無いのだ。

起きぬけの姿そのままにしてゴミ捨て場へと向かった。今住んでいる飯田橋の家は、本来は事務所用の建物なので、周りは凸版印刷をはじめとして会社だらけだ。それでなくとも飯田橋はビジネス街なのだ。

マンション、というよりも雑居ビルの方が相応しいかも知れない、を出ると、まず最初に目に飛び込んできたのはスーツ姿の外国人だった。茶色いスーツに暗めの色のシャツ、落ち着いたネクタイをしていた。背は高く、すらっとした体形で、胸を張って歩いていた。

向かいからは凸版印刷方面に向けて日本人のサラリーマンが歩いてくる。ドラマに出てくるような疲れきって体形もだらんとしたサラリーマンではなく、スーツを着こなし、足早に歩いていた。

そんな中にジャージにサンダルをつっかけて歩いている自分。ゴミ捨て場まではたかが20メートルほどであるのに、その距離を歩くのが無性に恥ずかしい気がした。恥ずかしいというのは少し違うかもしれないが、とにかく急いで家に戻りたかった。これほどまでに社会が立派に見えたのは久しぶりだ。塾で働くようになってから、社会のマイナス面ばかり見てきた。

ここ10日ほど、早起きを心がけ、またバイトの関係でおきなくてはならないため、9時前には起きていた。昼過ぎまで寝ているのが当たり前だった自分からすれば、これでも立派なものであるが、社会人の目からすればこれほど自堕落な生活が出来たらさぞかし嬉しいことだろう。

バイトを始めると、ある程度社会の裏側が見えてくる。塾で働けば、余程のプロでない限り塾というものは信用に足らないということがわかるし、飲食店で働けば、その不衛生さに驚くという。前から見れば立派に見える社会も、裏から見れば奥行きは無いのだ。

恥ずかしいことに、高校までは張りぼての社会を信じ込んでいた。幼い子どもがコウノトリ伝説やサンタクロースを信じているのと同じように、社会というものは立派で、それぞれが専門の知識に満ち溢れ、それぞれの能力を生かして働いているのだと。大学も、少なくとも世に言う一流大学では学欲に溢れた学生が多く、皆一生懸命に勉強しているのだと思っていた。

大学入学からしばらくして、その張りぼては倒れた。一生懸命に勉強している学生はむしろ異端児であり、塾の先生は何らの専門知識を持っているわけではなかった。塾の講師になるための研修期間に行われることといえば、授業の仕方よりも保護者や電話への対応、ドレスコード、言葉遣いのほうが重視されているのだ。何だ、こんなものなのか。正直に言ってそう思った。

知るとは、知る前の自分と知った後の自分が変わっていることだと、ど偉い脳科学者(だっけ?)は言った。だんだんと社会に近付いてくるにつれて、色々なことを知ってきた。それは決して良い方向に変化したとはいえないが。

でも、今朝の何気ない出勤風景は、また新しく何かを変えた気がする。社会は確かに張りぼてだと思う。その気持ちは今でも変わらない。しかし、張りぼてであったとしても、それを支える力というものが存在することに気付かされた。

朝は早く起きて、きつい通勤ラッシュに揺られて会社に向かう。厳しい上下関係に悩まされ、取引相手に悩まされ、自分の将来に悩まされる。それでも生きるために仕事をこなしていかなくてはならない。張りぼてを守らなくてはいけない。

その努力すら、今の自分はしていない。就活に向けた努力もしていないし、大学院対策もあまりしていない。そんな自分が社会なんて余裕だと偉そうに言うのは筋違いも甚だしい。せめて自分のことを出来るようになってから、文句は述べるべきだったのだと反省している。

社会人は、社会人たるだけでも十分大変なのかもしれない。それは人間として求められる最低限の資質なのだろうが、それを果たしているのは立派なことだと思う。「所詮慣れだよ」の一言で片付けるのはあまりに情がないのではないか。

朝の雑踏と、塾に行くまでの時間にそんなことを考えていたら、遅刻しそうになった。