歴史は繰り返す

手元に読む本がなかったので、地元の本屋で前から気になっていた↓の本を買ってみた。

実はまだ半分くらいしか読んでいないのだが、なかなか興味深い本であると思う。世界が経済中心で動いていくようになってから久しいが、日本もその例にもれず、というよりも世界よりも遥かに社会の経済化が進んでいる。経済至上主義と言っても良い。

その最たる例が高度経済成長期の日本の発展と引き換えに起こった公害の悲劇であり、過労死の悲しみだった。石油危機によって高度成長は終わりを告げ、安定成長時代がやってきたことで、日本人は環境に対する責任や配慮というものに気付き、いち早く環境技術や省エネ技術の邁進に努めた。

しかし、バブル景気を迎えると、工業の分野ではそれほどの大躍進はなかったものの、不動産や株券といった具体的産品ではないものの価値が急上昇し、これらは環境意識とは切り離して考えられる分野であった。つまり、利益追求をどれほどまでに徹底しようとも、他者に対して大幅な迷惑をかけることもなく、後世に害を残すこともない。自分はこのバブル景気こそが日本人に経済至上主義という考え方を徹底させた大きな理由ではないかと考える。

しかし、当然ながら理由無き好景気が長続きすることもなく、あっけなくバブルははじけてしまう。それ以降、日本は「失われた10年」と呼ばれる長い不景気の時代に入ることになる。極限までに熱せられた経済熱が一気に冷やされたことで日本人の経済に対する恐ろしいまでの執着心は失われるかのように考えられるが、そうではないと思う。

好景気のときは更なる利益追求を目指して、利益獲得を唯一無二の目標とする考え方が生まれることは決して不思議なことではないが、逆に不景気のときにこそ、利益獲得を目指す考えというものは浸透しやすいのではないだろうか。

日本に住んでいる以上、少なくとも制度上は経済的困窮によって衣食住を確保することができないということはありえない。そういった意味で発展途上国の悲惨な環境下で生きている人々と比較すると、どれほど不景気であろうとも不幸ということはないのだが、人間は生活のレベルを落とすということに不思議なほどに耐えることが出来ない。

不景気は会社に大打撃を与える。多くの企業が倒産し、銀行は大量の不良債権を抱えることになった。企業に打撃がくるということは間違いなく社員にその悪影響は及ぶことになり、大量のリストラと給与カットが実施されることになる。生死までは影響しないものの、生活には大きくマイナスの影響を与えた。そのことが、人々に生活レベルの下落に対するアレルギーを引き起こさせ、不景気のときにこそ生き残りをかけて利益を追求しなくてはならないと考えるようになる。

そういった意味で、好景気のときよりもむしろ、不景気のときの方が経済至上主義というものは浸透しやすい。

高度経済成長からバブル景気にかけての好景気とその後の長い不景気が合わさったことで、日本人の精神に経済至上主義を根付かせることになったと思う。ただ、それは必ずしも正しい生き方であるとは限らない。生きる目的を間違ってしまった人間は、必ず間違いを起こす。その典型的な例が、ここ数年で連続して起きている気がしてならない。

それこそがライブドア事件であり、村上ファンドの不正であった。この2つの事件は密接に関連しているが、そこには大きな共通点がある。ただ、今でこそ不正が発覚したのでライブドア村上ファンドもマスコミや政治から叩かれているが、もし不正をしていなかったらどうなっていたかはわからない。そのため、これから述べることは結果論になってしまうだろう。

先日、ホリエモンの地裁判決があった。結果は執行猶予なしの懲役2年6ヶ月。罪状は何であったか覚えていないし、彼が犯した罪というものは冷静に考えてみると本質的にはめずらしいものではないと思う。メディア戦略を上手く利用して社会現象まで起こしたので注目度が高いだけであって、決して特異なものではない。

注目したいのは、記者会見で彼が「私はただ株主の利益を最大限追求しただけです」と述べたことだ。思い起こしてみると、村上ファンドの村上社長も同じことを言っていた。「株主が利益をあげて何が悪いのか」と。株主はボランティアで出資しているわけではないので、配当がなければ株券を所有している意味は無いし、なるべく配当を多くしてもらおうと思い、株価の上昇を望むことは当然だ。そしてそれ自体は全く法に触れることもないのである。

ライブドアが一気に名を上げたのは、テレビ局の買収騒動があったからだ。親会社であるニッポン放送の株を買い占めることで、親会社よりも遥かに巨大であり、社会的影響力の高いテレビ局を指揮下に収めようとした。

ここで、ライブドアの法の抜け穴を利用するようなやり方に大いに不満を抱き、批判する意見も多数噴出したが、それ以上に大きな問題というものは存在したと思う。当時も問題視されていたが、結局会社は誰のものかということである。

理論上は会社に出資している株主のものだということが出来るだろう。しかし、現実に会社を動かしているのは社員であって株主ではない。社員なくして会社は動かないのだ。そして、大抵の大企業の場合、株主はその企業からの配当や利益が無くては転落人生になってしまうということは無いだろう。そう考えると、実際は会社は社員のものであるといえるだろう。軍隊が政治家のオモチャとは違うというのと似ていると思う。

ただ、そうはいっても取締り役員は株主に良い面を強調し、良い顔をしなくてはならない。社員と株主の間に挟まれて苦労することになるだろうが、だからこそ高給取りなのであり、それが仕事なのだから甘いことは認められない。

話を元に戻すと、「株主の利益を最大限に追求する」というのと「会社の利益を最大限に追求する」というのでは全然趣きが変わってくるということだ。もちろん、そう言った本人達がどう考えていたかということは、一介の大学生に過ぎない自分には知る由もないのだが・・・

「株主の利益」と言えば、そのまま株主重視の姿勢であり、「会社の利益」と言えば、社員重視の姿勢になる。会社の利益が上がれば、当然のことながらそのおこぼれはわずかながらも社員に行き渡る事になる。当然のことながら、株主に比べて社員の数のほうが圧倒的に多い。そして一社員と比べて株主のほうが圧倒的に裕福である。どちらの利益を求めるべきだろうか。

株主に良い顔をすれば、新たな出資を受けやすくなり、事業を拡大しやすくなる。だから既に出資してもらっている恩も含めて株主の方を優先するべきだという考え方もあるだろう。ただ、それで社員を置いてきぼりにしてしまってはどうしようもない。

例のテレビ局買収騒動で、ライブドアはテレビ局の社員の意向を自ら伺っただろうか。恐らくしていないだろう。株さえ手に入れてしまえばどうにでもなる。そう考えていたのではないか。確かに法的にはそうなる。全く問題はない。

だが、社員の意向を伺わずにテレビ局を手に入れたとして、その後に経営陣の方針に社員の大半が反対していたとしたらどうだろうか。経営陣が入れ替わったのだから、反対派は一掃してしまって、新しく外部から呼び込めば良いじゃないか。そういう考え方も確かにある。

短期的な視点からすれば、そういった強攻策も有効だろう。必ずしも社員が正しいわけではないので、優秀な経営陣の方針が功を奏す可能性だって十分に考えられる。ただ、あくまで短期的な利益に過ぎない。「反対するなら他に行け」「上の言うことには従え」という態度はいつか必ず問題になる。歴史上の独裁国家のほとんどが今では消滅してしまっていることがそれを物語っている。国家ですら消滅するのだから、一企業が消滅したとして何の不思議があるだろうか。

秦の始皇帝は、長く続いた戦乱の時代を統一し、法家思想を導入し、郡県制(?)を断行した。統一の方法は武力であり、統治の方法はその武力を背景として強行した。それまでの慣例や伝統を否定した。その結果、秦は一代で滅びたのである。それを教訓とした前漢は最初は伝統を部分的に引き継いだ郡国制を採用し、長い年月をかけて郡県制に移行したのである。これは全く現在の経済や企業のあり方に応用できる話ではないだろうか。

この場合、統治者である皇帝一族は株主であり、被治者とも言える諸侯が社員である。皇帝に最終的な決定権があるとは言え、実際に地方に影響力を持つ諸侯の意向を無視してしまっては穏便ではいられない。多少話が変わっては来るが、日本でも武家政権が朝廷を廃止することが出来なかった理由のひとつにこれも上げられるだろう。それまで権威を所持し、伝統を持つ朝廷を廃止することは出来なかったのである。

武力=資金力を持つ側が全てを思い通りにすることは出来ない。むしろ、被治者の意見を積極的に聴き、それを導入してこそ長く生き残る体質というものは出来る。短期的な利益追求が必ずしも長期的な利益(つまり生き残るということ)に繋がるわけではないことを、学ばなくてはならない。

それを更に広い視点から見れば、消費者を忘れてはならないのだ。ピラミッド構造にしてみれば、企業においては株主を頂点として、次に社員、最後に消費者となるのだが、株主
層が利益をせしめて巨大化し、逆に消費者層がやせ細ってしまったとすれば、ピラミッドは間違いなく崩壊する。支えがしっかりしてこそ、ピラミッドは大きく、高くなるのである。

企業が消費者に儲けさせると言ったら、少し違和感があるかも知れないが、要するに良い商品を適正な価格で売り出すということに過ぎない。消費者の存在を忘れて価格を吊り上げたり、品質を低下させれば必ず崩壊し、社員を疎かにしても必ず崩壊する。

「情けは人のためならず」とはよく言ったもので、まず第一に消費者に利益を与え、その利益を社員に与えることで、最終的に株主に還って来る利益はより大きくなる。人のためにだけ頑張ることは出来ないが、言葉は変だが自分のために人のために努力する。そういった考え方が必要とされていると思う。

歴史は繰り返すというが、戦争や革命といった大事に限らず、歴史的に見れば小さな経済活動ですら形を変えて繰り返している。形が違っているので、見過ごされてしまいがちであるが、注意してみてみれば学校で習った暗記型の歴史であってもそれを応用する場はいくらでも転がっている。塾講師をやっていると「歴史をやって何になるの?」という質問によく出くわすが、勉強したことを利用しようと思えばいくらでも利用できるのである。

「私は理系だから歴史なんていらない」などという20世紀的なプロフェッショナリズムはもはや通用しない。多くの個別科学が出揃ってしまった今だからこそ、それらを複合させて活用すべきだと思う。歴史学者政治学や経済学を知らなくていいはずは無く、理系学問を嫌ってしまっては発見できるものも出来なくなってしまう。経済という言葉に盲目的に従うのではなく、単位稼ぎのための授業に受動的に出席するのではなく、出来る限り自分の意思を入り込ませたいと思う。

最初に書こうと思っていたこととはだいぶずれてしまったが、それはそれで良いかもしれない。論文を書いているわけではないので、自由に書いた方が自分の考えが理解出来て良い。日記や紙に考えをまとめるということは、自分の思考力をより高めてくれる気がする。まぁ他の人のはてなの更新が楽しみなので、もっと書いてくれると良いのになぁ・・・という自分勝手な考えが混じってはいるのだけれど。

ただ、ほどほどにしておかないと、色々なことに支障が出てきます・・・約束の時間に遅刻しそうだw。