言語のるつぼ

プロフェッショナル原論 (ちくま新書)

プロフェッショナル原論 (ちくま新書)

を読みました。感想などは他でやるとして、この本の特徴から感じたことを少々。内容は表題の通り、「プロフェッショナル」に関するものです。

この本は実に外来語が多い。不必要なほどに外来語が使用されている。外来語を不必要に使う本というものは、読みにくくてどうしようもないのだが、この本も例に洩れることはなかった。例えば、最も違和感を覚えたのが「インディペンデント」という言葉。英語をやっていた人ならば、決して難しい単語ではなく、単に「独立した」という意味である。

「プロフェッショナルはインディペンデントな職業である」のような記述がいたるところに出てくるのであるが、どこに外来語を使用する必要があるのだろうか。「プロフェッショナル」という言葉には、「専門職」とは異なった意味合いがあるので、特別な意味を込めて外来語を使用しているのだろう。現に、筆者も「プロフェッショナル」と「専門職」は違うものだと定義している。このような場合に、外来語を使用するのは正しいだろう。

しかし、「インディペンデント」は全く必要のない外来語である。

「プロフェッショナルはインディペンデントな職業だ」

「プロフェッショナルは他から独立した職業だ」

というのに、大きな違いがあるというのだろうか。全くない。だからここで外来語を使う必要はないのである。これは無用な混乱を招くだけであり、正しい日本語の使用を妨げるものだといえるだろう。外来語を使用すると、多少知的に見えるのかもしれない。それは確かに否めない。言葉にはそれなりのイメージが付きまとうものだ。

ただ、それでは主張の意味が通りにくくなってしまうというのであれば、本末転倒と言わざるを得ない。本、特に新書というのは、専門家を相手にしたものではなく、難しいことを一般人でもわかるように書くべきものである。哲学や科学書のように、一定の知識を持った人以上を対象にしているのであれば、その人たちの間で通じる言葉を使ったほうが良いかもしれないが、この場合はそうではない。

そう考えると、世の中には無用な外来語が溢れているのである。「ペン」を「洋筆」と言い換えるのは非常に馬鹿げたことであるが、「創造的」を「クリエイティブ」という必要はあるのだろうか。今でこそ「クリエイティブ」は日常語として定着したから誰にでも通じる言葉になったが、音数的に考えればむしろ「そうぞうてき」の方が少ないのである。「品質」と「クオリティ」や「少数派」と「マイノリティ」も同様である。

それ以上に、日本語における外来語には決定的な欠点がある。それは意味を予測できないということだ。日本語は難しい言葉は大抵漢字を用いて表す傾向がある。ことわざなどを除いて、意味が分からない単語というのは、漢語が多いのではないだろか。

しかし、わからなかったとしても、それを予測できるのは漢字を用いているからである。漢字というのは表音文字でありながら、表意文字である。だから、漢字を見ただけでもある程度はその意味を予測することが可能である。

外来語にはそれがない。カタカナだけでは意味は全く推測することは出来ない。知っているか知らないかの世界に入り込んでしまう。知らない人は近くに電子辞書でもない限り、知らないままで通り過ぎてしまうことが多いと思う。それでは主張の一部が理解されないのだ。読者を理解させようとしているにも関わらず、無理に外来語を使用することでわからなくなってしまうのを望む筆者はいないだろう。

現在、外来語が町に溢れている。しかもその大半は単純な日本語に変換可能であるにも関わらず外来語で使用されているのである。これは西洋に対する日本人のコンプレックスの一環かもしれないと思いながらも、そのわかりにくさに辟易しているのが今の自分だ。マスコミも政治家も官僚も、無駄に外来語を使用しているが、それが主張を通りにくくしていることになぜ気付かないのか、実に不思議である。

かといって、漢語ばかり用いるのも良くはない。外来語に憧れる人間が多いのと同様に、漢語に憧れを抱く人間も多い。どちらかと言えば、自分は漢語寄りの人間であるが、文章を書くときはなるべく簡単な言葉を使うように心がけている。漢語、というよりも漢字には人をひきつける力があると思う。外来語が外来であるからこそ一部から好んで使用されるのと同様に、漢字はその難解さからあえて使用するのだろう。

難解な文章を使用するということは、その難解さを身につけている証拠となる。しかし、それは言わせてもらえば単に難解さを単純化する能力に欠けているだけであり、決して賢い行動とは呼べないのではないか。人間の言葉というものは、そもそも他者と対話するためにあるのであり、そのためにはなるべく理解しやすい言葉を使うのが礼儀である。日記などはそれに当てはまらないかもしれないが。

漢語と外来語は非常に賢そうな形態をしていることは否定できない。外来語はそれこそ「エキゾチック」なイメージを持つし、漢語は「荘厳」な感じがする。ただし、それらは単に説明能力の不足を補うために使用される、あるいは単なる格好付けのために使用されるに過ぎない。

論文であれ、ブログであれ、誰かに見られる可能性が高い文章は、他者の立場に立ってわかりやすい文章を心がけなくてはならない。韓国のように、既に定着している外来語(多くは日本語)をわざわざ普段使用しない固有語に置き換えようとするのは、行き過ぎていて馬鹿げていると思うが、これ以上無駄な外来語を増やさないようにするのは必要なことではないかと思う。