大人転じて親

気付けばこの世に生を受けて既に20年以上が経過しています。人間は、年を取るにつれて知能と身体が発達し、大人になっていくものではありますが、果たして立派な大人になれているのでしょうか。「20を過ぎたら大人だー」と思っていた人が、「就職したら一人前の大人だー」と思うようになり、「結婚したら大人だー」とか「親になったら大人だー」なんて言っているうちに、死ぬ直前になって「大人になんて誰もなれないんだよ・・・」なんてことになりかねません。

これまでは、「世の中の大人が悪い!」とか「政治家が悪い!」という感じに身近な嫌なところから逃げていた面もありましたが、社会的には立派な大人と見られる歳に到達し、投票にもいけるようになりました。もうそんな言い訳をするわけにはいきません。自分で自分の責任を取らないといけなくなりました。

じゃあ、大人って一体何?どういう風になれば良いの?そういう素朴な疑問が湧いてくることも度々です。教職を志していると、尚更そんな疑問に当たるのです。教師は授業の展開力だけでなく、人生の先行者として、そして大人としてアドバイス出来るようになるべきだと思います。もちろん、そんな教師が日本にどれほどいるかはわかりませんが、それが理想像である以上、目指すべき対象です。

身近に大人の代表例のような人がいるでしょうか。こういう人になりたい!そう思える人がいるでしょうか。出来れば夢を同じくする人で、そう思える人がいると良い。探してみると、案外難しいものです。

自分は、両親に非常に感謝し、尊敬しています。母は子どもを三人も産み育て、父は家族を不足なく食べさせてくれた。私立の中高にも行かせてくれたし、私立大学にも行かせてくれている。来年には弟も大学生だ。母の手を煩わせることは少なくなったかもしれないが、父の苦労はまだあと8年ほど続きそうだ。

自分には到底出来そうもない。楽しい家庭を築きたいと思う気持ちは、職業で成功したいと思う気持ちと同じくらいに強く、憧れる。子どもには一流の教育を施してやりたいと思うし、家族で旅行もしたいし、毎日夕食を共にしたい。けれども、それを果たすためには、資金力なしではほとんど不可能と言っても良い。

そんなに稼げるのだろうか。私立中学・高校に通わせたら、年間で100万円くらいは平気でかかるだろう。しかもそれで1人分だ。3人いると思うと恐ろしい・・・そこに住宅費、生活費、税金、保険料、お小遣い・・・手元に残るだろうか。何かあったときに、しっかりと動けるだろうか。

もちろん、お金が全てであるはずじゃないし、一番大切なものは他にあるに決まっている。しかし、現実的な問題として、資金のない人間が、いざという時にしっかりと動けるかということに関しては、とても不安に感じる。お金は手段であって行動ではないし、結果でもないけれど、手段は多ければ多いほうが良い。お金で解決できる問題があるのなら、使う使わないは別として、その手段を持っている方が良いだろう。

実に不思議なことに、我が家にはまだ余裕があるらしい。子どもに家計の心配をさせないというのが、父のモットーであるらしく、稼ぎなどの詳しいことは教えてくれない。いつか独立することになったら、教えてくれるかもしれない。ただ、1ヶ月に5〜6本のワインが届き、大きなワインセラーが知らないうちにおいてあった状況を考えれば、少なくとも切迫しているはずはない。

こういうとき、親は偉大だと思う。単身赴任している父に、申し訳ない気持ちと感謝の気持ちが溢れてくる。父だって、出来れば自宅で家族と過ごしたかったと思う。仕事で大成したいという気持ちもあっただろうが、転職する前の会社が危なくなかったら、単身赴任という判断を下しただろうか。

結局、父は単身赴任して変わってしまった。仕事が大切なようで、感情の起伏が激しくなった。自分とは逆な感じになっている。普段は変わらない父だけれども(と言っても普段はいませんが)、ふとしたときに感情を爆発させる。明らかに仕事が影響しているようだ。

父はどこかで後悔してないだろうか。父が自分自身のことをどう思っているかを知る術はないが、満足できているのだろうか。家族のために自分を投げ出し、50近くの大人が一人さみしくカロリーコントロール食品を口にする。

飯田橋で暮らすようになって、1つ気付いたことがある。食事は一人で食べていても、美味しくないことだ。それがどんなに味として美味しいものだとしても、自分で楽しんで作ったものだとしても、美味しく感じられない。やっぱり誰かと一緒に食事をすることは、必要なことなのだ。人間は一人では生きていけない証拠が、こういうところにも現れているのだと思う。生まれてからこの方一人で食事をするという経験をほとんどしてこなかった自分には、衝撃的なことだった。

きっと父は、何度も、自分の望んだ人生はこんなものだったのだろうか・・・と自問したことがあるに違いない。父はよく車で仕事先を走り回るそうだが、万が一事故を起こしたときに、家族がすぐには駆けつけてこられないようなところにいる。縁起でもないことではあるが、死に際に家族がいない可能性は十二分にあるのだ。

何のために働いているのだろう。そう思うのが普通だ。慣れでそう思わなくなってしまうほうが余程恐ろしいと思う。

そう考えると、理想の家庭とは何なのかわからなくなる。みんな笑っていられれば良いさ!なんて、マンガや小説には書いてあるけれど、どうしたら笑っていられるのだろうか。この日本で、稼ぎが少なくて大丈夫なのか。クリスマスにちゃんと望んだプレゼントを贈ってあげられるのか、お年玉を奮発できるだろうか、お洒落をさせてあげられるだろうか。お金がないときの疑問は尽きることがない。

かといって稼ぎ一辺倒になるわけにはいかない。それでは本末転倒だ。家族で楽しくいられてこそ、働く意義も倍になるのであって、それがなくなれば、意義は半減だ。ATMにはなりたくない。そう思われるなんて耐えられるはずがない。

幸せな家庭とは何だろうか。幸せになるには、何が、どれくらい必要なのだろうか。何をどう頑張れば良いのだろうか。

それだけは、誰も教えてくれない。幸せの尺度なんて人それぞれなのだから、他人が口出しできることではない。遠くから見た山は、登ってみれば案外大したことはないかもしれない。しかし、頂上に途轍もなく美しい風景が待っているかもしれない。それは遠くからでは、わからないことだ。実際に登ってみたものだけが、感じ取ることが出来る。

まぁ、とりあえず風呂付きの家に住みたいなと思った年末の一夜でしたとさ。