白い校舎

白い巨塔」が半端ではなく面白い。ドラマは何らかの事情があってみることができなかったが、本の方が詳しく書かれているので、時間はかかれども良いかもしれない。まぁそれは個人の好みの問題だろう。そして考えさせられることもたくさんあった。

ここからは、ある程度ネタばれの可能性がありますので、話を知らない人は読まないほうが良いです。

話の前半は、第一外科教授選挙がメインだ。天才的外科手腕を持つ財前助教授が、医学部内での人間関係や権力関係の結果、順調に教授になれないという問題が起こる。結果として、財前教授が誕生することになるのであるが、人間社会というのは、必ずしも実力で判断されるものではないことに改めて気づかされる。実力だけで判断されたら、どれほど楽なことになるだろう。

これに関しても、さまざまに思うことがあるが、ここで書きたいのはそれとは違う。今日書くのは、後半のメインである誤診裁判に関してのことである。

財前が無事に教授になった後、財前は内科の里見助教授から、個人的な人間関係を通じて、ひとりの患者を受け持つことになる。と言っても、その患者には外科から受持医がまわされるので、いつもいつも財前教授自ら診断するわけではない。初期診断を財前が行い、癌と判断された患者であるが、天才的手腕を持つ財前に手術を行ってもらうことが出来る。

癌の手術自体は非常に上手く行ったものの、里見助教授や受持医が事前から指摘していた癌の移転に関しては、財前教授は検査を行わずして「その危険はない」と判断した。結果として、その患者はその癌の移転によって死亡することになってしまう。財前教授はそもそもこの患者に関して、手術以来興味を持つことなく、外遊に出かけてしまう。患者の死亡は不幸にもその外遊の最中であった。

つまり、完結に述べるのであれば、手術を担当した財前教授は、誠意をあまり見せず、手術をしっぱなしの状態にしてしまったのである。そしてさらに大丈夫と言われながら急死してしまったことに対して、患者の遺族は不満を禁じえない。そこから裁判が行われることになったのである。

医学とはまだまだ未知の領域が多すぎるために、患者の死亡した理由を必ずしも財前の誤診とは判断することは出来ず、むしろ理論的には誤診ではない。では、この患者の死亡した責任は一体どこにあるのだろうか。

まぁ、まだ途中までしか読んでいないので、これから先のことはわからない。ただ、自分にとっては、この裁判が必ずしも関係がないとは言い切れないのである。それどころか、身近になってくる可能性すら十分にある。

最近、連鎖的ないじめ自殺が相次いだ。メディアの報道の量によって、いじめが増加しているように感じられるだけだとは思うが、現在大量に自殺者が出ているというのは事実であり、文部科学省を初めとして、教育関係者はこの事実を厳粛に受け止める必要がある。教育委員会の責任や改廃など、さまざまな視点からいじめ問題が分析されているが、ここでは、いじめが発生した原因と、自殺の責任は誰にあるかという事を考えていきたいと思う。

もちろん、医療裁判と同様に、いじめのケースもそれぞれであり、一概に言い切れることではないことはわかっている。そしてその責任を問うたとしても、自殺者が帰ってくるわけでもない。だが、いじめは身近にある。それに関しては、少しくらいは考えておく必要があるのではないだろうか。

いじめ裁判はこれまで何度も行われてきており、その判決は、棄却、原告勝訴、一部認定とおよそ3種類に分かれ、拮抗している状態である。裁判とは、判例を非常に重要視するものだと思うが、やはりケースバイケースであって、難しいのだろう。裁判で必ずしも真実が語られる保証もない。

いじめを二種類に分けるとすれば、見えるいじめと見えないいじめに分かれると思う。前者の場合は、暴行・恐喝など身体的・経済的ないじめであって、その現場を目撃すれば、一目でその手だと分かる種類のものである。後者の場合は、無視や仲間はずれなどの、現場に居合わせてもわからない可能性が十分にありえるものである。まずはそれをわけて考えなくてはならない。

見えるいじめの場合は、学校現場においては、いかなる場合も暴力というものは認められないものであり、絶対、即座に排除しなくてはならない。こういってしまうと、いわゆる「体罰」との境界線が難しくなってくるのであるが、ここでは生徒間の暴力に限定することとする。

学校側としては生徒間の暴力は、どれほどの理由があるとしても認められないのは上の通りである。学校は一つの教育機関であり、少なくとも民主主義の場においては暴力で物事を主張することは不可能だという事を教えなくてはならない。綺麗事だとは思うが、秩序の中では綺麗事を通さなくてはならない。

見えるいじめが行われている場合、少なくとも学校内であれば、必ず早期に目撃者が出るはずである。あるいは、その雰囲気を教師が感じ取って警戒をしておけば、全く気づかなかったなどという事はないだろう。現場が学校内の場合は、その責任は教師が負うべきだろう。これは決して担任教師に限った話ではなく、その学校の全ての教師である。「うちのクラスはいじめがなくて良かった」と思っている教師はたくさんいると思うが、それは言語道断だ。

もし、いじめが学校外で行われていると、教師がそれを発見するのは難しくなってくる。さすがに生徒全員の足取りを知ることなどは出来ないし、やってはならない。通りすがりの人が仮に現場を見たとしても、多くは通り過ぎることだろう。そうすると、被害者には辛いことではあるが、暴力を受けている最中に出来ることはほとんどないだろう。

一番良いのは被害者が自ら申し出ることではあるが、いじめの性質を考えると、それが出来ないケースも多い。あるいは被害者が申し出を恥ずかしいと考えているとしても不思議ではないし、親などを心配させまいと思うかもしれない。あまり自己申告には期待するべきではないだろう。

学校外で暴力を受けた場合、その傷は残ることが多いだろう。それを見ることが出来るのは、家族である。恐喝されて異様に金銭的に困っていることにも気づくことが出来るだろう。あるいは落ち込みから何らかの行動の変化が起こるはずだ。それを見逃してしまっては、いじめが発覚しないかもしれない。家族はその行動に平素から細かく注目すべきだろう。

見えるいじめは学校内外で起こりうることであり、それに関しては、教師・家族の両方に監督責任が認められる。いじめ被害者の家族は「かわいそうでかわいそうで」ということが多いが、それに気づけるのは教師以上に自分たちだという事をもっと認識すべきだろう。

ぎゃー、バイトだ!あと忘年会だ!