自分が今必要としているもの

幕引きを実行に移すほどの勇気がないけれど、自分が生きていることに疲れを感じる自分には一体何が足りないのだろう。ようやく、それがわかった気がする。今までは薄々と勘付いてはいたのだけれど、それを無視し、他の道を探していた。でも、自分にとって他の道なんて存在しないんだということに気がついた。

強く生きることの出来る人間には、芯がある。その芯は、自分の愛する人であったり、自分の野望であったり、誰かからの恩義であったりと、人それぞれによって異なってくる。今まで自分は、その芯さえあれば強く生きられるんだと思ってきた。でも、そうじゃない。強く生きられる人間には、芯以外にも欠くことのできない条件があるはずだ。

芯があれば、どれだけ今が辛くても強く生きられる。キャッチフレーズとしては最高だ。けれど、自分にはそうじゃなかった。芯だけではダメだ。周りを固める何かがないと、芯まで崩れてしまいそうになる。

その芯以外の何かとは何なのか、全然難しいことじゃなかった。あまりに当然のように存在しているから、その存在意義に気付かないだけだった。それは、「日々」の楽しみだ。

何だくだらないと思うかもしれない。毎日が楽しい人からすれば、今の自分の悩みはわからないだろうし、高校時代の自分に今の自分の悩みを理解することはおろか、想像することすら出来ないだろう。でも、それを失ってしまうと言うことは、芯を失うことよりも余程大変なことだと思う。

これから書こうとしていることは、あまりこういった場で書くべきじゃないのかもしれない。多くの友人・知人が見ているような状況下で、自分だけならまだしも、他人を巻き込んだ内容を書くのは、その人に迷惑になる可能性も十分にある。だからもし、これから書こうとしていることに関係している人、特に俺の恋愛遍歴にからんでいる人が読んで、内容を消して欲しいと思ったり不愉快に感じたら、すぐに消す。「じゃあ書くな」ということになるのだが、俺にとって大事なことなので、出来る限り記録しておきたいし、まとめたい。

ちなみに、いつも自分自身のことを「自分」と称するのは、自分自身から少し離れた立場を取ろうと思うからであり、今回あえて「俺」という言葉を使うのは、本気で自分のことを主観的に考えたいと思ったからだ。ちょっと文章がおかしいかもしれないけれど、今日だけは論理的にどれだけ破綻していようとも構わない。

中学・高校時代、俺を支えてくれるものは主に3つあった。それは、部活、友達、恋人だった(この辺で人物特定が出来ますので、遠慮せずに「消せ」と言ってください)。学校に行けば、週に4〜5日は部活があって、大会での勝利に向けてチーム一丸となって練習していたし、気心の知れた友達と楽しく話し、好きな人との時間を過ごすことも出来た。

中学時代から、本気で教師になろうと思っていたから、将来の目標としての芯は、今の俺とほとんど変わらない。ずっと将来は教職に就くことを目指してきた。その気持ちが変わったことはない。

高校を卒業して大学生になり、環境が劇的に変化した。高校までの狭い社会で形成される濃密な人間関係を大学で望むことは難しく、社交性に大きく欠ける俺にとってはとても嫌な環境だ。それを表に出すことはないし、大学の友達もいるから、話すことには事欠かないし、笑うことだってある。でも、そこには人格を完全に表に出した付き合いはなく、話と言ってもテストのことや世間話ばかりで、もっと大切なことを話すことはほとんどない。本気で悩みを相談できるのは(と言っても俺の場合は相談しないことが多いけど…)中学・高校で仲の良かった連中だけだ。

それから部活がなくなった。早稲田で部活をやりながら勉学に励むことは俺には無理だと思ったので、部活は諦めた。サークルで本気でやるというのもあるのだけれど、やっぱり部活とは違う。何が違うのかといわれれば、明確な答えには困るのだけれど、違和感を大きく感じるから、やる気がおきてこない。

去年、付き合ってた人と別れた(こういうところがまずいんだな…)。それまで俺は彼女を何度も裏切ってきてしまったし、傷つけてきてしまった。だから、それは仕方のないことだったかもしれない。今更後悔してもどうしようもないのだが、後悔してしまう。何を後悔するのかというと、別れてしまったこと自体じゃなくて、付き合ってたときの俺自身のことだ。

大学が始まって、俺の性質と大学の性質が合わないことがわかってきても、その人と付き合っている間は辛くなかった。今のように疲れてしまうこともほとんどなかった。大学が俺にとって如何につまらないものであり、部活がなくなって打ち込むものがなくなり、人間関係に不満を持っていたとしても、その間は平気だった。そのことに、今までは目を背けてきていた。

俺は、彼女と会っているときは、本当に楽しかったし、好きだったから本当に嬉しかった。その喜びや嬉しさが、大学におけるつまらなさや不満などをどれだけ大きくしても、圧倒的に越えていたからこそ、毎日を楽しく生きられた。今思えば、精神的に依存状態にあったのかもしれないが、でもそれはどうしようもないことだったと思う。とにかく、彼女に頼る形で、何とか疲れることもなく生きていた(「生きていた」というと大げさだけど…)。


別れる以前は、本気で好きなんだと感じていた。でもそれは、決して絶対的な意味での「本気」じゃなかったんじゃないかと、今は思うようになってきた。どうも俺は間違ってたと思う。

「恥ずかしい」ということに、勝てなかった。ここに俺の「本気」が「本気」でない最大の理由があった。時間のせいで、場所のせいで、人のせいで、言えなかったことや出来なかったことがたくさんあった。この「〜せいで」がダメなんだ。




最近、若者の羞恥心の低下が社会問題視されている。その手の本もたくさん出ていて、たまたま新聞で目を通した本の一つの章に、「人前でキスをすることを恥と思わない若者たち」というのがあった。とても俺には出来ないことだった(今でもかなり無理があるだろう)。これはあくまで極例なのだが、俺の場合はもっと規制が強かったということだ。

他の人がどういう恋愛をしているかわからないから、あまり大層なことは言えないけれど、別にそれほど好きでもない人と成り行きでキスしたりそれ以上に到達することがどうやら多いらしい。そういった点では、若い人々の羞恥心は低下したと言って良いと思うし、そんな状況は本気で軽蔑する。

けれど、本気で好きな人とだったら、話は別だ。周りを「見てない」のではなく、周りが「見えない」のだったら、全然意味が違う。それは羞恥心がないんじゃなくて、お互いのことを「本気」で好きなせいだと思う。それが俺には欠けていたんだ。

良く言えば理性のガードがかかっていたということになるかもしれないが、ただ「本気」を知らなかった、「本気」になれなかっただけのことだ。周りが見えなくなってしまうくらいに、本気で好きになるのは、難しいことなのだろうか。でも、当時の俺は本気のつもりだった。「つもり」だったけど、それは嘘じゃない。理性のガードを理性で外すことは出来た。それでは意味が無い。

俺の精一杯の「本気」は相手に伝わらないものだったかもしれない。どれだけ自分が「本気」でも、相手に伝われなければ意味が無い。でも、本物の「本気」だったならば、伝える努力なんかしなくても自然と伝わっていくんじゃないだろうか。俺の一抹の後悔は、全てその点に集中している。「あのときにどうしてこうしてしまったんだろう」「このときにあぁしておけば良かった」なんて小手先の気持ちしか持つことのできなかった俺では、どの道結果は一緒だっただろう。そんな小手先の後悔とは比べられないほどに後悔している。

恋愛は二人の感情の中で生きていくものなのだから、時間が経てば経つほど朽ちていく。そのときそのときの気持ちに正直になれないと、結局後悔することになる。巷では恋愛テクニックなんて本が満ち溢れているけれど、何よりもまず、相手の気持ちにすら優先させて自分の気持ちをその場で正直に言うべきだろう。戦略を立ててそれが上手くいくこともあるだろうが、戦略は所詮「本気」の下に存在する手段に過ぎない。





軽快な関係もきっと楽しいことだろうと思う。けれど、そんな関係とは雲泥の差の楽しさや嬉しさを感じることが出来るのが、「本気」の関係だと思う。今、恋愛に対して「本気」になることに不足しているのだろう。「恋愛は成立するまでが一番楽しいんだ」と友人のS君が言っていたが、そうではない一面もある。それどころか、そうではない一面の方が真実だと今は思う。

だから決して、軽い気持ちで「彼女が欲しい」とか「恋したい」とは思わない。そんな軽い気持ちで恋愛していたって、全ての感情の何も得ることは出来ない。だから俺はいつでも本気だ。冗談は言うけれど、軽い発言はしない。そんな贅沢を言っていては何も始まらないじゃないかという忠告も聞こえてくるような気がしますが・・・

本気になれないんだったら、一生一人で生きたって良い。恋愛にはそれくらいの覚悟があったほうが良いと思う。だからこそ、今俺は、人生全体に諦めを感じるほどに疲れてしまっているのだけれど・・・本気であることが、今の自分に足りないことなんだと、改めて意識することとなった。

ところで、付き合っていた当時の俺の「本気」は今考えると本当の「本気」じゃなかったと言ったけれど、それはあくまで「今考えれば」の話であって、当時の俺は俺なりに「本気」だったということは、決して悪いことじゃないと思う。

そのときそのときを、本気であることは、大変なことだけれど、喜びや嬉しさ楽しさは尋常では味わえないほどだ。それが欠けている。芯が丈夫なだけでは、どうやらやっていけない人間らしい。

もう19年も生きてきたのに、何だかいやに理想論を述べてしまったと思う。でも、限界までこの理想を追い求めて生きたいと思います。