バカの壁で自己を囲む。

この前、大学で高校生相手を想定した模擬授業があった。教科教育法の授業で、60人近い大学生相手に、東西冷戦を講義した。ただ、人数が多く、発表は班単位。その中で担当に分かれて30分間授業を行う。学部生が塾講師をやっていても味わうことの出来ない環境だ。自分の担当は導入部分だった。簡単に戦後復興から東西冷戦までの流れをやらなくてはならない。

授業の導入部分は、基本的に前回の簡単な復習から入る。いきなりその日のカリキュラムに入っても、理解をすぐに出来るとは限らないからだ。授業のペースをつかむためのウォーミングアップのようなものだ。重要な部分を簡潔に教える必要がある。ある意味一番難しいところなのだ。急ぎすぎてはならず、それでいて生徒に授業への頭の切り替えを促さなくてはならないのだから。

自分の講義自体はそれほど問題なく済んだ。ちょっと所定時間をオーバーしてしまったせいで、後に講義する班員に迷惑をかけてしまったが、自分でも決定的なミスはないと思った。むしろ、4班目だったので、かなりの高得点なんじゃないかと思っていた。

実際、評価は高かった。「板書がキレイ」「ボディランゲージが上手かった」「声が通っていた」「生徒のほうを良く見ていた」などなど、その他にも「今までの人の中で一番良かった」などと嬉しいことを書いてくれた人もいた。だが、基本的に他人の評価はそれほど厳しいものにはならない。後で自分も評価されるからだ。そういった考えがないわけはないと思う。

もちろん、批評もある。その中で一つ、気になる指摘があった。「授業のやり方は基本的に良いと思います。ですが、もっと強弱をつけたほうが良いですよ」と。

「強弱をつけろ」というのは、導入部分にしては、あまりに力が入りすぎていて、ペースが速すぎるという意味だろう。「板書がキレイ」という評価があったが、そもそも本来は導入部に板書はいらないのだ。その導入部にして、自分は普通の授業と言っても差し支えない板書を書き、冷戦構造を説明した。説明は、大学受験の論述説明に比べれば月とすっぽんだが、それなりに論理として成り立っていたし、結構時間もかかった。

つまり、授業半ばとしては問題ない内容であったのだが、導入部としては相応しくなかったのである。ウォーミングアップで全力を出してはならない。

授業は、短距離走ではなく、長距離走なのだ。短距離走は、いきなり最速に至らないとは言え、選手は最初から全力だ。全力でなければ勝負に勝てない。しかし、長距離走は違う。いきなり本気を出せば、ペースが乱れる。だんだんとその時間時間の全力へと向かっていき、最後に収束する。しかも、生徒がついてこられるペースに設定する必要まであるのだ。

長距離走を、クラスの大半がついて来られるようなペース配分。自分のペースに合わせていただけでは、自分にしか合わない独り舞台になってしまう。いきなり全力で走り出せば、驚いて転んでしまう生徒が続出するだろう。だから、少なくとも最初だけは、全員に合わせる。

今の自分にはそれが決定的に欠けている。板書をキレイにかけるとか、生徒のほうを見て話せるとか、話すことに筋が通っているなどということは、ちょっとした訓練で出来るようになる。今回の模擬授業だって、教育実習に行っている人や塾講師をやっている人ならば、それなりに上手にこなすことが出来るのだ。素人集団の中にいるから、それなりに見えるだけであり、絶対的に良い訳ではないのだ。

ペース配分だけは、ちょっとやそっとの訓練では出来るようにならない。自分のペースではなく、教室のペースなのだ。それを読み取り、合わせていく技術。これは何にでも通じることだ。授業だけではない。会社のプレゼンテーションから異性への告白まで、様々なシーンで必要になる。だが、中々認識されないし、実行となるとそれ以上に難しい。

何でもかんでも、全力でやれば良いわけではないのだ。全力でやるほうが余程簡単なのである。