学校歴史の意義

自分は日本史が好きだ。今まで学んできた学問の中で、日本史ほど興味を引くものはなかった。数学や英語なども大変面白かったのだが、日本史には到底及ばなかった。だから今、大学の文学部に入学し、念願であった日本史学を専攻しているのである。

自分のように、歴史学の好きな人間にとって、小学校から歴史を教えることは楽しいことであり、非常に有意義なことである。しかし、歴史を好まない人間にとっては、歴史の授業は退屈な時間でしかないことが多く、「何の意味があるの?」と問われる学問No.1間違いないだろう。

その疑問が生まれるのは、現在の学校における一般的歴史授業が展開されていることに原因がある。ここで言う一般的歴史授業というのは、教科書主体の授業方法ということだ。もちろん、まだまだ説明が足りていない。

教科書というものは、恐らく客観性を追及するあまり、国語や歴史と言った、人間性なしには語れないような分野の学問からも感情を奪い去ってしまった。国語については専門外なので、何とも言えないし、歴史ほど人間性・感情が奪われてはいない。奪われていない最たる理由は、教科書であっても、そこにある文章を書いているのは感情を排除しようとしていない人間であるということだ。

それに対して、歴史の教科書からはほとんどと言って良いほど感情が感じられない。何故あれほどの大戦争が起こってしまったのか、何故あの土地は反映したのだろうか、何故あの文明は滅んだのだろうか・・・そこにはその時代に生きた人々の生きた感情が大きな影響力を持っており、全てがシステマチックに構築されているわけではないのである。

しかし、教科書は善悪をはっきりと打ち出すことは出来ない。一方的な政治教育となりかねないからだ。それは戦前の反省からも来ているのだが、客観性を維持するためには、感情の部分を排除して、事実のみを書き記すのが良い。事実のみを書き記し、善悪の判断は読者に任せるとすれば、教科書をつくる側の政治的偏りは回避することが出来、責任を負わずに済むのである。

するとその教科書を利用した教育はどのようなものになるか。当然ながら感情の面がほとんど生かされない授業になってしまうのである。歴史学においても、経済学においても、まるで完全なる客観性を持ち、常に冷静で的確な判断を下すことの出来る人間が主人公となっているように書かれているし、実際にそういう人間が歴史を作り出してきたかのように教えられるのだ。

感情の面を排除した授業を行い、それをテストするときにはどうするか。もちろん、言うまでもなく、単語テストになるのだ。今まで多くの日本国民が受けてきた歴史の定期考査、あれほど意味のないテストもめずらしいものだと思う。

何故、よくある単語テスト的な試験や教育に意味がないのか。それは、数学の公式を理解せずに暗記して使いこなせるから数学が良くできると言っていることよりもひどいものである。公式を使いこなせるということは、その公式が公式として成り立つ過程を理解し、暗記しなくとも自ら導き出せるような状態を指すのではないか。公式を暗記して使うだけだったら、コンピューターと何が違うというのか。教育は人間を人間たらしめるものであって、コンピューター化させるものではないはずだ。

日本の歴史教育の悪しき習慣の象徴として、年号暗記がある。「良い国作ろう鎌倉幕府」が最も有名なゴロ暗記だと思うが、実に下らない。何でもかんでも暗記して、まるで自分は日本の歴史に関する深い知識があるのだと思うとしたら、勘違い甚だしいと言わなくてはならない。

鎌倉幕府が1192年に成立したという事実よりも、何故源頼朝が幕府を開くことができたのか。何故その時期に武家政権が誕生したのかということを理解している方が、余程歴史を知っているといえるのではないか。

もちろん、理解が全てと言っているわけではない。理解するためには最低限の知識の暗記は必要なことである。基礎知識があってこそ、理解がより深まるのであって、暗記を単純に否定しているわけではないことをわかってもらいたい。

最初の質問に戻ろう。歴史を学ぶことに一体何の意味があるのか。それに応えなくてはならない。

まさか、「人類が重ねてきた悲惨な歴史を繰り返さないためだ」などと言う気はない。もしそれが歴史学の意義であるとしたら、歴史的に見て、歴史学はその役割を全く果たしていないと言えるだろう。第二次世界大戦ほどの戦争があっても、まだまだ地球上から戦争がなくなる気配はなく、むしろ台湾海峡問題など、第三次世界大戦への警戒態勢がどんどん向上していると言っても過言ではないのだ。

そもそも、人間は知識をコンピューターのように共有できない構造になっている。「古代は口承で、現代は映像で知識を伝達することが出来るではないか」と言われるかもしれないが、事実を正確に知ることが出来るのは、その場にいた人間だけなのである。自分達が、どれほど戦争が恐ろしいものかを聞かされ学んだとしても、実際に戦場で戦ったり空襲にあったりした人たちの苦労を知ることは出来ない。間接的に経験した者がどれほど最悪の状況を思い浮かべたとしても、実際には全く敵わないのである。だから、歴史を伝えることで人類をより良い方向に導くことが出来るというのは、理想でしかない。ましてや2代目、3代目となってしまえば見る影すらなくなってしまう可能性も十分にある。

では何のために歴史学を学ぶのか。「過去を知りたいという欲求が人間に先天的に備わっているから、調べるのだ」という理論が通用するのは歴史が好きな人間だけだ。歴史が別段好きでもない人間には何の意味があるのか。

それは物事を多角的に見る能力を身に着けるためであると思う。例を挙げれば、経済的視点から、文化的視点から、政治的視点から、社会的視点から、軍事的視点から、人間的視点から・・・と言ったように、物事を一方的な見方に附すのではなく、色々な角度から検証し、真の価値を見出すことにあるのではないか。

それを教科書、学校歴史学では教えていないのである。そして、その傾向を強めているのが、私大入試だ。私大入試、特に早慶を指すが、そこでは知識の理解が問われることはほとんどない。「第6回遣唐大使は誰か(応えは知りません。。。)」などと言った単発的な暗記力を問う問題ばかりだ。だから歴史は暗記が全てのようなイメージが定着してしまうのである。

続きは今度・・・