勝手に宗教論

この前清水とちょっと宗教について話したので、自分なりに宗教について考えてみた。

人間にとって宗教は欠かせない存在であると思う。しかし、科学技術が発達し、生活水準も世界最高に達した現代日本においては、神の存在価値は薄れてきている。自分達の多くが、「信じている宗教は何か」と尋ねられれば、無宗教だと答えるだろう。

だが、当然のことながら日本においても宗教が発達していた時期があった。最も発達していたのが、中世戦国時代である。戦国時代において、宗教、その中でも仏教が発達した(特に一向宗)のは、戦国時代という明日をも知れぬ時代性と仏教の特性にある。

仏教には、来世をよく生きるという考え方・願望がある。輪廻転生というものだが、現在の生活が悪いのは前世での行いが良くなかったため、来世で良く生きたいのであれば現世で良く生きなくてはならない、簡単に言えばそういうことになる(と思う)。仏教を詳しく研究したわけではないので、この「来世」がキリスト教世界などにおける天国の観念と同等なのか、あるいは再び人間界で生きることを意味しているのかはわからないが、少なくとも、現世を見限って来世に期待を掛けているという点では間違っていないだろう。

戦国時代は、その名の通り戦乱が続き、また食糧確保などの生活の最低水準を保つことすらままならないこともざらにあった。つまり、常に生命の危険にさらされていたわけである。現代人からしてみれば生き地獄だろう。

人間は何かを信仰して生きるという本能があると思う。むしろ、信じていないと生きていけないと言っても良いのではないだろうか。そして環境が不安定であればあるほどその依存度が高まっていくことは間違いない。

明治維新まで、日本古来の宗教である神道が振るわなかったのは、蘇我氏物部氏を討ち、仏教を日本に積極的に導入した時代に始まり、奈良時代平安時代と仏教が保護されてきたという惰性的な理由もさることながら、それは仏教と神道の教義の差にあると思う。

ここから先はにわか知識なので、確証は全くない。というか思い込みだ。

神道は、日本古来の宗教であり、アニミズムの流れをくんでいるだろう。つまり自然崇拝のようなものだ。だからこそ、自然の一つ一つに神を名付け、八百万の神と言われるほどの多神教として成立している。人間にとって自然とは恵みをもたらす存在であると同時に、畏怖の対象でもある。作物を実らせてくれるのも、神々の仕業であるし、自然災害を引き起こすのも然りだ。結局、「神=自然」であるため、人間の働きかけによって直接的に神の行動を動かすことは出来ない。その上、神道は人間の救済が必ずしも主目的ではないというのも大切だろう。

それに対して仏教は違う。仏教は様々な宗派がありそれぞれが違っているが、基本的に人間の救済を目的にしていると言える。宗教行為(念仏など)を行うことで、仏に自分自身を救ってもらうのである。

そうなると、生命の危機のときに信じるのはどちらが良いだろうか。普通に考えて仏教だろう。現世が地獄であるならば、せめて来世はよく生きたい。そう思うのは当たり前だ。物質世界が危険にあるのであれば、精神世界が生活に占める割合は大きくなるが、しかし逆に物質世界の不足から精神世界の崩壊を招く可能性も大きくなる。

そのような状態の中で、精神世界を正常に保つためには、何か強いものを信仰しなくてはいられない。何も信じられるものがないときは、人間の精神は不安定になり、時として崩壊してしまう。あるいは、賢者や恋人、両親、親友などと言った人間自身を信じることもあるだろう。しかし、それでは不足になってしまう。人間は他人から見てどんなに立派に見えても決して完全な存在であるわけではなく、また死期は必ず来るため、当然のことながら永遠の存在ではない。言ってみれば、人間の存在自体が不安定なのだ。不安定な状態で不安定な存在を信仰しても、それは意味がない。だからこそ、教義が不安定な状況に適しており、また存在しないが故に絶対的安定を持つ仏教が、戦国時代に大流行したのだと思う。

では、物質的に豊かな時代はどうなのか。現代日本は(今のところ)戦争の心配もなく、物質的には世界最高水準に豊かである。極端な例(通り魔や虐待、交通事故など)を除いては、いきなり命を失うことも、飢えることも考えられない社会だ。そのような社会において宗教は必要なのだろうか。

それは間違いなく必要だと思う。確かに、日本は物質的には豊かになった。しかし、逆に精神的には豊かになっただろうか。自分はそうは思わない。むしろ、精神的な強さは物質的豊かさと反比例の関係にあると思う。物質的に豊かになればなるほど、精神的には弱くなっていく。もちろん、全ての人に当てはまるわけではなく、その人が生きてきた環境や自分自身の意識によって精神を強くすることは出来る。

精神的強さ・弱さとは信じる強さ・弱さであると思う。自分自身を信じる力もそうだし、自分以外の何かを信じる力もそうだ。果たして我々は、何かを十分に信じきる力を持っているだろうか。自分が信じるに値する存在を見つけているだろうか。一体信じるに値する存在とはどのようなものだろうか。

思うに、今我々が求めている信じるべきものの条件は、生活上の指針ではないだろうか。「何を今更」と言った感じかもしれない。そもそも宗教とは生きる指針なのだから当たり前と言えば当たり前だ。だが、同じ生きる指針を求めているとしても、現代社会と近代以前の社会では目的が違う。そのために、内容も変わってくる。

前に述べたように、近代以前の社会では(江戸時代は微妙だが)、ほとんど常に死に接していた。そのことによって、来世への期待感が膨れ上がり、来世への貢献としての現世での良い生き方を求めた。

それに対して、現代においては、科学の発達によって、来世観は崩壊したと言っても過言ではない状態にある。来世への期待よりも、現世での利益を求めている。つまり、現世でより良く生きるために、生きる指針を求めている。

では、その目的の差によって、内容にどのような差が出てくるのか。

それは、具体性である。来世のための生きる指針の場合、「より良く生きる」というのは、どれだけ信仰対象に尽くせるかということであった。阿弥陀仏にひたすら願う、日曜日に教会に行く、聖地を巡礼する、聖戦に倒れるなど、宗教は違えど、全て信仰対象への信頼の証明である。それによって、信仰対象の力で、来世をより良くしてもらおうと目論んでいる。するとどうか。信仰対象は、抽象的であり、実際に存在するのではない(最初は別だが、その頃は宗教といえるかどうか…)し、それ以上に誰も生きて来世を知ることは出来ないのである。その点に注目したい。来世を知ることはできない(というか存在自体怪しい)ので、来世を良くするための方法は、生きている人間が創造・想像しなくてはならない。

別に、念仏を唱えたからと言って、科学的に変化が起こるわけでもなく、聖戦に倒れたからと言って、病院で死ぬのと、死という本質に変わりはない。どういうことか。

つまり、万人を対象として、生きる指針を示すことが出来るということだ。念仏を唱えることは誰にでも出来る。聖地巡礼も資金的に厳しいと言っても不可能ではない。日曜日に教会に行くことも出来るし、禅を組むこともできる。誰でも出来るのだ。「これをやりなさい、そうすれば救われます」とモデルパターンを示せば、それに従うだけで良い。

それに対して、現世での利益を求めて現世でより良く生きるためにはどうしたら良いのか。少なくとも、モデルパターンを示すだけでは効果は薄い。何故なら、現世は誰しもが経験しているため、自分の周りのことは理解できてしまうからだ。他の人の成功例を見て実践したからと言って、自分も成功するということは保証できない。同じ料理の本を見て料理したとしても、一流コックと一般人ではやはり出来が違うように。では、一体何が違うのかと言えば、その人個別の状況である。より良い人間関係を築こうとするときに、内気な人と社交的な人ではその方法は異なってくる。

より良く生きるとは、社会的成功を意味するのではなく、個人の人生の充実度を上げていくことだ。そして充実度を上げるには、良好な人間関係は不可欠であり、むしろ中心にあると言える。

人間は二人として同じものはない。現在地球には60億人の人間が存在するが、厳密に分ければその分だけの人間関係の方法があるのである。60億人と付き合っていくには、60億通りの方法が必要であり、さらに3人での人間関係を考えた場合はそれどころではない数の方法が必要になってくる。

つまり、来世のためのより良い生き方は抽象的で、全ての人間が実行可能であったのに対し、現世のためのより良い生き方は非常に具体的で、全ての人間に応用することは不可能である。そこが難しいところだ。

すると、従来の形のままの宗教では、現実的な人間の心の救済は出来なくなってくる。我々が今求めているものは、現世での救済であり、来世への推測ではない。その証拠として、より良い生き方の指針を示している『7つの習慣』がベストセラーとなっているのだろう。

我々が今求めているのは、仏教やキリスト教などの従来の宗教ではなく、儒教などの道徳的指針であり、それを宗教に変わる信仰対象としようとしているのではないだろうか。だが、果たして万人に通用するような道徳的指針を示すことが出来るかどうかは、疑問である。

もちろん、宗教的曖昧さが必要な場面があることもわかってます。あくまでそういった一面があるんじゃないだろうかという話です。