じゃあ実際どうなの?

昨日のイベントでホリエモンの鞄持ちの人がこう言っていた。「教師の質が低い」と。じゃあ一体どんな点がダメなのか、具体的に話してもらいたかったけれど、この質問を思いついたのが帰りの電車の中だったので、時既に遅し。では・・・ということで自分で考えた。人間として「質が低い」ということと、教師として「質が低い」とはどういうことなのか。

人間として「質が低い」というのは、ほとんどが「向上心のないこと」だと思う。『こころ』に書いてあったように、精神的向上心のない人間はダメだ。世界を、あるいは日本を極めたというならばありえるかも知れない。理想を言えばそれもダメだと思うけど。では向上心があればそれで良いのかと言えばそうではない。向上心を持つのは最低限のようなものだ。それがあっても、実行力がなければ意味がない。実行力と成功とはなんら関係はないと思っている。実行するとしないでは大きな違いがある。実行して失敗するのと、実行しないで現状維持では、自己成長の意味で大きな差が出てくる。

では、教師の「質が低い」とはどういう意味だろう。教師の仕事を果たすことが出来ないってことだろうか。もちろん、ここで言う「仕事」とは単に教えることだけを指しているのではない。伝達者の役割ならば、誰でもできる。では教師に求められる能力とは何だろうか。まずは自分の教科を完璧に教えられること、つまり勉強の面での能力だ。ここで言う完璧は、全ての受験に対応できるレベル(最低〜東大・京大)、あるいは生徒に興味を抱かせることができるレベル。後者の場合は、コミュニケーション力が含まれてくる。大学教授が専門家にも関わらず、興味を持たせることができない授業をするということは、彼らには中高生を教える能力がないということだ。

他に教師として大きいのは、人間性だろう。教育において人間性が何よりも必要とされるのは親だと思うが、その次に教師は高い人間性を持たなくてはならない。親よりも接する時間が長くなる可能性は十分にあるのだから。

じゃあ高度な人間性って一体なんだ?ということになる。愛とか正義とか?そういう生きる理想を実現すれば良いのかな?でもそれじゃあ実社会で通用しないことも多々あるし、何よりもちょっと嘘っぽい面がある。理想は追求していたらきりがない。だから最低ラインを決めれば良い。最低のラインは人間としての不文律を完全に守ることだ。例えば、嘘をつかない。間違えたら謝る。感謝の気持ちを伝える。挨拶をしっかりする。感情に振り回されない。などなど。「こんなの簡単じゃん」と思う人もきっといるだろう。じゃあ(自分が間違っている)と思ったそのときに言い訳しないで謝ることができた人がどれだけいるだろうか。

理想を実現するのは難しい。教師だって人間だ。聖職者なんて言われるけど聖人ではない。無理して聖人たろうとすると、破綻する。結局は自分らしさの追求ということになるのだろうか。もちろん、「自分らしさ」というのは上記の人間としての最低限のルールを守った上での話だけれど。今の時代、よく言われるように、「個性」だ「個性」だなんていうつもりは毛頭ない。「個性」なんて簡単に定義できるものではない。ただ自分の感情に沿って(感情に乗っ取られるという意味ではない)、自然に、正直に生きていくのが良いんじゃないのか。それを見て、生徒が感心し、納得して、「自分も正直に生きれば良いんだ」と思わせることができれば最高だ。

結論としては、教師の「質の低さ」は、勉強の面では能力不足、そして人格の面では自己欺瞞が質の低さの原因になっていると考える。学校という特殊な空間の中で、生徒にどのような未来を見せることができるのか、それこそが教師の「質」の基準なのではないかと思う。


なんか久々に真面目に考えたなぁ笑。