真実を知るということ。

突然だが、今「日本の朝鮮支配は、国際法上なんら問題はなく、当時の環境からしてやむを得ないものであった」という記述を歴史教科書や新聞で見たら、読者はどう思うだろうか。
恐らく、「右翼的」とか「歴史を歪曲している」と答える人がほとんどだろう。日本の歴史教科書には、普通そういった記述はないし、あったとしたらその教科書は使われないことがほとんどだ。現在の日韓関係や日中関係を見てみても、歴史認識問題でもめていることもあり、日本人もそういった記述に対しては嫌悪感を抱くに違いない。日本の歴史教育を受けてくれば当然のことだ。だが、それは大変危険であることを認識するべきである。一つ、具体例を挙げる。

大日本帝国時代の話であるが、戦前の歴史教科書には、今では当然のように記述されている「壬申の乱」や「南北朝対立」が記載されていなかった。帝国大学に進んだわずかなエリートのみが事実に触れることが出来たのだ。これは一体どのようなことを意味しているのか。

戦前の日本は、明治維新以来、天皇を国家の頂点に掲げ、国民国家の建設に邁進してきた。天皇は国民の心の支えであり、日本国の元首だった(らしい)。国民の統合と支配のために天皇の崇高さが利用されていたと言うことになる。天皇は現人神であり、憲法に「神聖にして犯すべからず」と記載されるほどの存在であった。そんな存在である天皇が、過去に身内同士で争ったなどという事実が国民に知られでもしたら、国民を統合する神としての価値が大幅に低下し、国民支配に天皇を利用しにくくなる。だから、そのような事実が一般国民に知られることがあってはならなかった。つまり、歴史が政治によって利用されたと言うことである。政治的に不利になることは隠す、曲げる、抹消する。こんなことが行われていると言うことだ。

「メディアが発達しているこの時代にそんなことあるわけないだろ」と思うかもしれない。
しかし、そんなことはない。一部でアジア・太平洋戦争が美化されているのと同様に、逆の現象も起こっている。まだ自分自身も詳しく調べていないため、あまり大々的に言うわけにもいかないが、一応、例を挙げてみる。

アジア・太平洋戦争の勃発には、日本の地主制が根本的な原因である」と言われたら、普通の人には理解できるとは思えない。恐らく、「日本の領土的野心から、朝鮮・中国・東南アジアに進出した」と言う風に考えているのではあるまいか。しかし、そのような考え方は安易としか言いようがない。では、その仕組みを簡単に説明してみる。

日本で寄生地主制が発達する。(小作人の所得はとても低い)

少数の大地主と多くの小作人が発生する。(当時の日本は農業労働者数が多い)

日本国内の市場が非常に狭くなる。(小作人は所得が低いので、あまり消費活動を行わない)

国内市場だけでは、日本企業が生き残ることは出来ない。

外市場を求める。(しかし、当時の日本製品は精度が低く、欧米では売れない)

日本製品の質からして、独占的な海外市場を必要とする。

そのためには、その海外市場で日本が欧米製品を規制するしかない。

軍事的に進出することで、その地方の市場を確保する。


これが日本が海外的に軍事侵略を行った大きな理由の一つである。そしてそのターゲットとなったのが満州であり、そこで松岡洋右の「満州は日本の生命線」という言葉が出てくるのである。満州の市場を失ったら、日本は根底から経済が崩れる。という危険性があったため、海軍がアメリカ相手に勝算はないと主張したにもかかわらず、開戦へと至ったのである。

普通の高校の歴史教科書にこのようなことは記述されていない。これを読んで初めて知ったと言う人も大勢いることだろう。自分自身、予備校で日本史の論述授業を受けなければ、知らないまま大学に進んでいたことだろう。

つまり、現在の日本の歴史教育は、私立大学の問題にあわせているのか、単語の暗記にばかり重点が置かれ、歴史の真実は書かれていないのである。これは政治的な問題ではないが、叩けば埃が出てくるように、日本の歴史教科書には不都合なことが書かれていないのである。戦後の場合の、政治的問題とは一体どのようなことであろうか。それは、東アジア外交である。敗戦後、日本は(当然だが)侵略国として扱われ、中国・朝鮮に対して歴史的に反省すべき点が多々存在した。反省点は強調しやすいものである、どのような理由があれ日本が侵略したと言う事実は隠すことは出来ないし、何よりも大きい。占領地でどのような政治が行われたかと言うことよりも、占領していたという事実の方がわかりやすく、重要に考えられる。

その大きな事実の裏に、隠れている真実があることを忘れてはならない。メディアはわかりやすさを大切にするため、そこを強調し、なおかつ、そこから間違った推測を行うことも多々ある。あるいは、視聴者に誤ったイメージを与えることなど、日常茶飯事だ。それを頭に入れておかなければ、これから真実を知ることはないだろう。

歴史は過去の出来事の記述であるから、変えようと思えば変えることが出来るのが問題点である。また、歴史は正しく伝わらない。必ずそこには関わった者の主観が入り、絶対に正確には伝わらない。現代の歴史家は、出来る限り主観を排さなければならない。そうでない限り、必ず己の政治的意図が研究に入り込み、真実を伝える邪魔をする。

これからの大学生活のうちで、出来る限り真実に触れていきたいと思う。これまでの全ての印象や考え方が覆されるかもしれない。真実を知らない人から批判や罵倒を浴びることすらあるかもしれない。それでも真実を知りたい。覚悟の上で。


ちなみに、問題の扶桑社の「新しい歴史教科書」はところどころ政治的意図が感じ取られます。中国・韓国が反発する以前に日本人自ら政治的意図の混入した教科書を使うことをやめるべきではないだろうか。

あとがきを一部抜粋してみた。

日本人が、これからもなお、外国から謙虚に学ぶことはとても大切だ。しかし、深い考えもなしに外国を基準にしたり、モデルに見立てたりすることで独立心を失った頼りない国民になるおそれが出てきたことは、警戒しなくてはならない。

一部だけ抜粋してそれを真実のように語るのでは、今のメディアと変わらないから嫌なのだが、少なくとも歴史教科書に国民の方向性を決め付けるような記述があるのは、他の部分がいかに完璧であろうとも許されることではない。真実に一番近いのは何なのだろうか。。。