仲が良いゆえの束縛

最近日記をつけている人の中で「高校の仲を抜け出して、もっと開放的なブログにしたい」と言っている人がたくさんいるけれど、(じゃあそうすれば良いのに)と思う自分は単純なのだろうか。そしてそれはそんな単純な問題ではないと言うのだろうか。基本的に日記の内容は、日々の記録なのだから、それは自分が生きている世界を反映しているのである。高校生の時の日記が、高校の内容ばかりになってしまい、それによって読む人々が同じ高校の人だけに限定されてしまうのは仕方のないことだ。しかし、今はその束縛から抜け出したいと言う筆者は少なくとも高校生ではない。大学生や浪人生や社会人となってより広い世界で生きているはずだ。だからその日々を綴っていけば、高校の束縛にあわない日記が書けるということになる。ならば読者も自然とより広い範囲の人々と言うことになるはずだ。これは間違ってはいないと思う。もし、内容が高校の人々だけにわかるようなことを書いているのに、高校の束縛から解放されたいというのは無理な話だし、それは自分から抜け出していくべきことであって、解放「されたい」と言う表現は適当ではない(そういっている人はいないかもだけど)。つまり、思うに、日記に高校の時の友達しか集まらないのは、それは日記の内容だけが原因ではないと。それは日記の内容が限定的なのではなく、その人が暮らしている世界が高校時代にある程度限定されており、そしてさらに自分の意思であると考える。別に誰が悪いわけじゃない。脱高校を目指すなら、もちろんそれも良い。でも、「縛られている」っていう表現は正しくないと言うことは確かだと思う。最初と言っていることが違うけど気にしない。。。