文明は必ずしも善ならず

いっしーがあまりに暇だというので、映画を一緒に観に行く友達の少ない僕は喜んで飛びつき、新宿のテアトルTSで『イントゥ・ザ・ワイルド』を観てきた。たまたま乗った山手線の車内で一両丸々広告を出していたので印象深く、そして何といっても敬愛する城山三郎が『無所属の時間の中で生きる』という本でクリス(映画の主人公)について触れていたので、「これは観に行かなければ」と思っていた映画だった。

素晴らしい映画だった。自分が如何に知らず知らず物質文明に侵されているのかということをひしひしと感じた。人間にとって本当に価値のあるもの、というとちょっとずれる。「自分にとって」本当に価値のあるもの、とは何なのか。それを改めて考えさせられた。社会に貢献しなければならない、あるいは自ら貢献したいと望むこと。それは社会的に望ましいこととされている。しかし、本当にそうなのか。

彼は他に一人の人間のいないアラスカの荒野で生きることを決意する。文明に頼らず(といいながらも銃などは使うのだが)、自然に従って生きていくことを選ぶ。その結果彼は死を遂げるのだが、そこには計り知れない満足感があったことだろう。いずれ彼については何かの本を読みたいと思う。

ここのところ、「精神的に豊かな生活こそが本当に豊かな生活なのだ」という文に良く出会う。それは国語のテキストの文章であったり、社会の教科書であったりする。そして、それが明らかに間違っていると考える人はほとんどいない。皆、物質的な豊かさの中で精神的な豊かさを望んでいる。当然自分もそうだ。

「もっと自然に生きていたい」と映画を観て強く思った。大学4年になりいよいよ「社会貢献」するときがやってきた今だからこそ強く思う。誰にも煩わされること無く、本当の自由を手に入れてみたいと。もちろん、これまで自分ひとりで生きてきたわけではないのだから、社会に恩返しをするのは当たり前かもしれないが、自分にとってはそれすら言い訳じみて聞こえてきた。物質に侵されることなく自然に生きるとはどういうことなのか。




いっしーと夕飯を食べて新宿駅で別れ、高田馬場に向かう山手線を待っているとき、そんなことを考えていた。しかし、物質の力は恐ろしい。一度都市で、物質社会で生きてしまった人間はもうそこから抜け出すことなど出来ないのかもしれない。

ホームには乗りたい電車が来ていた。階段をあと数段上ればホームというところで発車ベルが鳴った。「乗らなくては!」、とっさにそう思った。あと数分待てば次の電車が来るというのに、数分早く家に帰ったとしても誰かが待っているわけでもないのに、家に会いたい誰かがいるわけでもないのに、その数分を失うことを嫌った。

結局、電車の込み具合が酷かったので次の電車に乗ることにしたのだが、数分の無駄を嫌う物質文明が身体に深く刻み込まれていることに気が付いた。とても自分は自然の中で生きていくことなど出来ない。それだけの精神的な強さや勇気を持たない。両親や家族、友達や仲間を捨てることが正しいとは思えないが、それが出来るだけの強さは持っていたい。

本当の豊かさとは一体何なのか、本当の人生とは何なのだろうか?もう一度、考え直してみたい。まだ学生だ。社会や金に惑わされること無く生きることが出来る人生最後の時間だ。そこをあと2年、有効に使っていきたい。