青臭いレポート課題

レポートというか教場試験なのだが、「理想の教師像」というのが試験の内容。こういう青っぽい課題は大歓迎だ。大学生だからこそ出来る理想主義的レポート、恐らく就職してからでは現場の病でそんなことを考えることもなくなってしまうだろう。そうなる前に、純粋思考的な教師像を作り上げておきたい。それを現場で叩き直せばいいのだ。そういうわけで、基本的には教場で内容をまとめようと思うのだが、それはそれで心配なので今日ここで一通り考えをまとめておきたい。

私にとっての理想の教師像はあまりに思弁的であるかもしれない。具体的に「こうだ」という形があるわけではなく、現実の自分を教員という視点から見て正しいかどうかを考えるのである。理想像に現実の自分を近付けるのではなく、現実をブラッシュアップするといえるかもしれない。その差は実に曖昧ではあるが。

現実の私には、思弁的な意味での教員的視点からすれば看過できない問題が山積みである。例えば、私は現在大学4年生であり、大学院に進まずに教員就職というのも可能性としては十分考えられるのであるが、その際どの学校に就職したいか。私は東京都の私立中高一貫校を希望している。公立学校よりも私立・国立の学校を選ぼうとしている。そして、私立学校の中でも進学校を希望している。

しかし、それは果たして正しいことなのだろうか。私自身が私立学校出身であるというのが強い影響を与えていることも事実ではあるが、公立学校よりは私立学校の方が環境が良いという理由で選んではいないか。学校のレベルも高い方が教え甲斐があると思って希望してはいないか。そしてそのような教職志望者の学校選択・環境選択は間違ってはいないか。

もし、色々なレベル、様々な種類の学校における教育的価値を平等に認識した上で、希望として特定の学校を選ぶというのは正しい行為であろう。しかし、種々の学校を序列化し、その中で高いものを選ぼうとするのであれば教育者の姿勢として正しいとは思えない。「教育とは『信じる』ということだ」という言葉をどこかで聞いた。それは全くその通りだと思う。どのような生徒に対しても決して諦めることなく、その成長を信じて努力するのが教員のあるべき姿であろう。

そう考えるならば、環境による教員側からの学校の選択は、現実的には問題の無いことかもしれないが、理想的には大きな壁に当たることになる。学校の選択であるならばまだ良いかもしれないが、同じことは生徒との関係にも言える。成績や素行の良い生徒を選択して優遇し、一方でそれらの悪い生徒を冷遇するというのと変わらない。強く自戒の念を込めれば、表層的にはそういった問題は起こらないかもしれないが、無意識に彼らを避けることにつながり、疎外感を与えてしまうのではないか。

ならばそういった選択を行わず、一切を運命に任せれば問題は解決するかといえばそうではない。既に私の中に選別の意識がある以上、その選択権を放棄したとしても何も変わらないのだ。さらに意識で解決できるわけではないのだから、問題は一層深刻である。ここまで来ると私の教員としての適性に関わってくるのではないかと心配になる。

これらの私の心配事を反転させれば、理想の教師像が描けるのではないか。私が自分の価値観に基づく選択の危険性を危惧しているのであるのだから、逆にどのような生徒に対しても平等に価値観を交えずに評価することの出来る教師というのが理想である。博愛という言葉が最も近いと思う。自分の価値観や世の中の序列に基づく選択を行わない教師、それが理想だ。

しかし、それは人間である以上は不可能だと思う。それが可能であるとすれば、感情の無い人間であり、それは理想の教師と最も離れてしまっている。だから、私の本当の理想は、こういった問題を現実的な方法で解決している教師である。いってみれば現実的な理想の教師像だ。諦めるのではなく、どうしたらこういった理想と現実のギャップを解決することが出来るのか、他にも同じような問題がたくさんあるが、それらを解決し、現場で生かしていけるような教師に私はなりたい。