偽ブランドを憎む

私は一流ブランドという「概念」が好きだ。商品そのものには大して興味は無いが、歴史と伝統を守り抜いてきたその姿勢には敬意を払いたいと思う。そのためならば、対価が高くなることも大した問題ではない。一流ブランドという権威にはそれだけの価値がある。

だからこそ、偽ブランドというのは性質が悪い。偽物であるにも関わらず、本物の権威を盗み取る。それは決して許されることではない。ただ、今日は百歩譲って、ブランドの権威を利用して、不当な利益をあげようとする下衆な人間がいることは仕方ないとしよう。私がそういった類の人間よりもはるかに許すことが出来ないのは、偽ブランドと知っていながら偽ブランドを着用する消費者である。

偽ブランドであることを知りながらそれを利用する人間は、不当に安い対価で高い権威を利用する人間である。実際以上に自分を大きく見せようとする、それだけならば大した問題ではないが、「他人をだまして」自分の評価を高めようとするということになる。それは一流ブランドの権威を大きく傷つけ、また平気で人をだます最低の行為だ。

大抵の偽ブランドは傍目からでは見分けることが出来ないようにできている。そもそも、外からちょっと見ただけで見破られてしまうくらいでは、偽ブランドとしての「価値」(おかしな話ではあるが)がない。だから、外から見破られない程度には「精巧に」できている。そこには感心だ。

しかし、偽ブランドを触ることのできた人間には、簡単に見破られてしまう。ペラペラのカバンであったり、塗装のはげた財布であったり・・・見破るチャンスはそこかしこに存在している。それは偽ブランドと知りながら使用している人間にとっては何よりの恐怖である。自分が偽ブランドを使用していることが周りの人間にばれてしまったら、その評判はがた落ちである。だから、使用している人間は偽ブランドに他人が近付くことをどうにかして避けようとする。

その一方で、(偽ブランドでありながらも)ブランド品を所持していることを自慢したくもあるようだ。親しい人には自分がブランド品を使用していることを宣伝しようとする。あるいは全く偽ブランドに触れることの機会の無いであろう他人にも、宣伝したがる。それはあまりに大きすぎる自己顕示欲の表れであるといえるのだが、そこからボロが出てしまうこともあるということになかなか気付かない。

何かの偶然で、その偽ブランドに触れてしまった人間がその「宣伝」を聞いたならば、それが偽物であることにすぐ気がつく。そして彼(または彼女)が偽ブランドを使用していたことを誰かにしゃべるだろう。そのときから、偽ブランドを使用していた人間の後悔が始まることになる。お嬢様校の保護者会でそんな噂が流れでもしたら、使用者はいてもたっても居られないだろう。自己顕示欲の強い人間は、その分だけ自己の悪い面を知られることを極度に恐れる。



これらのことは、別に物質的なことに限ったことではない。日常生活においても、つまり人間の行動とその説明においても同様のことがいえるのである。ちょっとした粉飾であったならば、それに気がついた人も、自分にも多少なりともそういう面があると考えて、あるいは見過ごしても問題のないことだと考えて、何もいわないだろうし、水に流してくれるだろう。しかし、それが全くの嘘であった場合、しかも善行という一流の権威を不当に利用していた場合、見過ごしてくれる人間は数少ない。

日常生活における偽ブランド使用の暴露、これは実に恐ろしい。その暴露による信用の崩壊はとどめようがない。「人の口には戸は立てられぬ」といい、そして「悪事千里を走る」ともいう。さらに、信用の回復ほど難しいことは他に無い。ただし、これらの結果は一切が自業自得であり、一切の言い訳を許さない。その責任は甘んじて受けなければならないだろう。反省する限りは、いつか信頼は回復できる・・・・・・かもしれない。

物質的な問題にしろ、精神的な問題にしろ、偽ブランドは使用しないことだ。それに限る。これまで使用してきたという自覚があるのならば、あるいは使用してしまったかもしれないという不安感があるのならば(あるような気もしないでもない)、これからは使わないと決意しなければならない。そうでなければ、もうまともな人間とまともな人間関係を築くことなどできやしない。

他人からの忠告を求めることは不可能だ。偽ブランド使用者には誰も期待しない。期待しない人間には励ましの声はおろか、叱咤や怒りの声も届くことはない。自分自身で気付くしかないのだ。もしかしたら、その時にはもう手遅れかもしれないが・・・「自分の選択の責任(以下省略」ということに帰結するのかもしれない。