島赴擧至京。騎驢賦詩、得僧推月下之門之句。欲改推作敲、引手作推敲之勢。未決、不覺衝大尹韓愈。乃具言。愈曰、敲字佳矣。遂並轡論詩。

タイトルは「推敲」の出典だ。こういうのをわざわざ探さなくてもそらんじていえるひとに憧れるが、実際そうなるのは難しいだろう。というか無理だろう。ところで、突然「推敲」の故事など引っ張り出してきて何なのか、というと、多様な言語表現の必要性を痛切に感じることがあったのだ。

語彙力の無さというものが問題になるのは、日常生活においてではない。普段の生活では余程のことがない限りは、難しい言葉を使う必要などはなく、むしろ簡単な言葉を選んで使うことが多い。実際に、明治時代の小説などを読んでいて、今の気持ちを他人に説明するのにぴったりの言葉があったとしても、それを他人に話す以上は現在使われている日常語に翻訳しなければならない。そうでもないと、意図が通じないし、また気取っているようで嫌な気分になることもある。

例えば、これは自分としては日常で使うべきではないと思っている言葉の一つなのだが、

「あいつって本当に衒学的な奴だよなー」

といっていたとしよう。ここで問題になるのは「衒学的」という言葉である。そもそも「衒う」(てらう)という言葉自体が、難しい。「衒う」というのは「ひけらかす」「見せびらかす」といった意味で、「衒学的」というのは「学のある様をこれ見よがしに自慢する」という意味なのだ。つまり、日常語に翻訳するとするならば、

「あいつって本当にやたらと知識をひけらかす奴だよなー」

ということになり、むしろ「衒学的」という言葉を使う人間こそが「衒学的」になってしまうのだ。これは実に好ましくない傾向である。コミュニケーションが一方的ではない以上、二人の間に成立する言語を使って会話を展開しなければならない。しかし、残念なことに生身の人間とのコミュニケーションではなく古典的な文学や海外文学の翻訳などにばかり触れていると、このことをふと忘れがちになってしまうので注意しなければならない。

話が広がってしまったが、つまり、語彙力が必要となるのは、全く別の時間においてなのである。例えばそれは大学受験における国語の時間がそうだが、あれは意地悪なほどに語彙力を求めてくる。京大入試など国語の問題文を読むだけで精一杯になるほどだ。それは実に専門的な文章であるからこそなのだが、実はもうひとつ受験国語以外に、語彙力を必要とする場があるのだ。

それこそが、この「日記」である。日記とは、基本的には自分のために記すものである。現在はブログサービスが広まったおかげで、このように顔の見えない誰かが日記を読むことも可能なのだが、自分の場合は自分のためにこそ書いている面が強い。狙って面白いことを書けるのならば、それも是非やってみたいものなのだが、残念なことにその方面の才能は無いらしく、その次に面白い自己との対話にこの日記を利用している次第だ。

「自己との対話」などと大袈裟なことを言ってみたものの、要するに自分の感情を文章化することによって整理するということである。その日その日の自分の感情を分析し、文章化することによって、感情を取り込むことが出来る。また、イライラしているときに、その感情を正直に日記にしたらイライラがおさまったということは、ブログでそういうことを書いたことのある人ならば一度くらいは経験しているのではないだろうか。文章化することで自分の気持ちを客観視しているから、冷静になれるのだろうか、などと勝手に考えてみるのだが、今はそれは重要ではない。

原理はともかく、感情を文章化することで、その感情を取り込むことが出来る。そしてそのためには、感情をなるべくそのまま文章にするための力が必要である。感情というのは形が無く実につかみにくいものであるために、率直に表現するためには様々な状況に応じて持てる語彙を組み合わせて使わなければならないし、その場にぴったりな言葉というのも存在する。

そういったとき、つまり感情を文章化するときに、適当な言葉が見つからないと大変なことになる。感情は常に揺れ動くものだから、そのときに最も適した言葉で書き記すことが出来なければ、次に言葉が見つけたときに説明するというわけにはいかない。すると、たった一語の語彙の不足が、感情全体を逃してしまうことにもなりかねないということになる。それでは全く感情を取り込むことなど出来ない。胸のうちにあるのに、それを形として表現することの出来ないもどかしさは、それこそ表現できないほどだ。

だからこそ、語彙力は必要であり、そして語彙力をつけるために読書が必要なのだ。他者とのコミュニケーションのための語彙力など、普通に大学に入学するくらいであれば、あえて勉強しなくとも付くだろう。それに加えて、密接に関わる集団で使用される専門用語だけ抑えておけば困ることは無い。しかし、自分自身とのコミュニケーションはそうはいかない。何といっても、自分はわかっているのだから、それをごまかすことは出来ない。妥協したことはいち早くばれてしまうし(そもそもその意味が不明だ)、妥協は自分のためにならない。

自分を理解するために語彙力が必要で、読書が必要なのだ。別に本という形態を取る必要はないが、読書が人生を豊かなものにしてくれるというのには、こういった側面もあるように思える。語彙力だけは、アニメや漫画、映画、あるいは流行の小説などから得ることは出来ない。古典的な文学にこそ、豊富な語彙がある。だから自分は、他の誰のためでもなく自分のために、古典的文学に親しまなければならない。逃してしまった感情は、次にいつ出てくるかわからないのだ。歴代の文豪の才能が欲しくなる・・・

そういえば、こんな日記を書くことになったきっかけの文章は、東京駅を歩いているときに考えていた「人間は専門性を深めるにつれて、傲慢になる」ということに関するものだった。このうちの「傲慢になる」という部分を、

「傲慢に引き寄せられる」にするか

「傲慢に侵される」にするか

「傲慢に陥る」にするか

で迷っていたのだ。正直に言って、どれも正しい使い方をしている気がしなくて不安なのだが、どれもしっくり来ない。イメージとしては悪魔的な「傲慢さ」に誘われてしまうといった感じにしたかったのだが、どういう言い回しが最もそれに近いのか。胸の奥がむずがゆくて、胸をかきむしりたくなる気持ち悪さだ。こういう微妙な気持ちを、適確に表現できる人間は、実に幸せな人間だと思った。




ところで、久しぶりに長文の日記を書いてみると、どうも調子が出ないものだ。書き終わって読み返してみると、読みにくくて叶わない。長文の日記で、しかも会心の出来だったときは、流れるように読むことが出来るのだが、今日はつっかえつっかえで嫌になった。やはり文章は練習を欠くと(別に練習するつもりで書いているわけではないが)、下手になるようである。気をつけなければなるまい・・・