貧困と格差

「必要というからには、何か欠乏の前提がなければならない。」
とは三島由紀夫の『詩を書く少年』の一節だが、これは実に的を射た考えであると思う。少し考えれば当たり前のことではあるのだが、人間は当たり前のことをまとめて話されるとまるで新しいことを教えられたような気分になるから不思議なものだ。

さて、今現在自分は非常なる欠乏に瀕している。いうまでもなく金欠だ。本当に金欠で困っている。2月は受験があった関係でバイトの回数が丁度一週間分減り、3月は春期講習前の休みでこれまた一週間分減った。おかげでこの2ヶ月の給料はかなり少ない。実家暮らしは金がかからないものだが、一人暮らしは実に金がかかる。これまで払うべき金を払ってこなかっただけの話であるのだが、改めて食費の大きさに驚かされる。

余裕のある時期は、食費に月で4万円程度払っていた。食費を削ることだけはしたくないと思い、多少高くてもある程度栄養のあるものを食べていたからだ。大戸屋弁当屋の店員には顔を覚えられてしまった。あとはスタバで結構使ったかもしれない。とにかく食費は問答無用の正義であった。

しかし、余裕がなくなれば、元々他にほとんど使っていなかったために、食費を削るほかなくなる。服など最後に買ったのがいつだかわからないくらいだから(大学生としてそれはまずいと思うが)、節約は完全に食費が対象である。具体的にいえば、月の食費を1万5千円程度に押さえ込みたい。一週間平均4000円であるわけだから、数字の上ではそれほど辛くないはずだ。

それはとんだ間違いであった。切り詰めれば切り詰めようとするほどに壁にぶち当たる。まず外食など論外である。しかし、誰かとご飯を一緒するときには外食以外にありえない。しかも外食をケチるわけにもいかない。外食でケチっては何のための外食かわからなくなるし、人付き合いにも影響がである。仮に週に2回程度外食するとして、それだけで2000円程度はかかる。たったの2食で週予算の半分を使うのだ。そして今週の月曜日はまさにそれ。1500円の出費であった。

そこで、自炊の案が有力視されてくる。といっても、料理が出来るわけでもなく、また凝った料理は費用がかさむので出来ない。すると自然と粗食にたどり着く。ご飯、味噌汁、野菜の和え物、卵(朝のみ)、納豆(朝のみ)で3食を済ませる。豆腐は100円で2日分、野菜は600円もあれば一週間分買える。卵が200円でこれまた一週間分、納豆も同じく200円だ。米は実家から拝借してくる。あとはビタミンCを摂取するためのかんきつ類が週に400円程度、乳酸菌を摂取するためのヤクルトもどきが200円程度。

するとどうだろう。計算上は2000円で一週間分の食費がまかなえる。しかも非常に健康的なのだ。欠けているのは肉と魚くらいのものだが、これは週末に実家に戻ったときに食べることにしたい。そんな感じで先週末に実家に帰り、食べた魚は驚くほど美味であった。肉も旨い・・・今までは何と贅沢な食生活を送っていたのかと愕然とした。

ここで計算から省いたものがある。水だ。水代は意外とバカにならない。言うまでもないが水道代のことではない。現在は薬局で水を買うようにしているので、2リットル100円だ。コナミに通うと一日当たり1本は消費するので、月に25本程度購入することになる。水を飲むことで空腹もまぎれるので(まるで戦時中のようだ)、悪いことばかりではないのだが、結構な出費となる。松方正義の苦悩が今ならわかる。しかし、水道からでる水は飲めたものではない。

来週からはテレビによく出る節約主婦を見習って、計画を立てて食事をしようと思う。これまでの自分はブランド物を買うために食費を削りに削る「節約」主婦を半ば軽蔑していたのだが(目的が家族旅行であれば可)、目的こそ違えど手段は同じ。先輩として参考にさせてもらおう。彼女たちは4人家族で食費月1万程度だというのだから、絶句してしまう。

実に貧乏くさい日記となった。正直書いていてこれほど情けないことはない。華の大学生が明日の食事で悩んでいるとは嘆かわしい限りだ。自尊心をひどく傷つける。自尊心のない人間は、バカだ。バカにはなりたくない。

ここまででひとついえることは、実家暮らしの全ての大学生は、例え実家に食費を入れていたとしても、その保護者に感謝すべきであるということだ。家に帰れば食事が出てくることを当たり前だと思っているとしたら、それは大いなる間違いだ。自分が健康にいられるのは、食事が用意されているからこそである。小さい頃からの習慣だから、ついついありがたみを忘れてしまうが、食事を用意してもらっているのなら、皿洗いくらいは当然自分でやるべきだ。主婦は家事が仕事とはいえ、それを超えた恩を受けている。それを今こそ返すべきなのだ。





とりあえず・・・腹が減りました。。。パスタは安い!