願望は尽きないもの、だからこそ良い。

コンタクトの錠剤を失くしてしまって、今日は久々のメガネ登校だ。コンタクトが目に対する多大な負担となるらしいことを考えれば、メガネ登校が望ましいのだが、如何せん邪魔に感じられて仕方ない。ちょっと前々では、コンタクトを付けてメガネを外すことがお洒落であるとの認識があったように思えるが、昨今ではむしろメガネが知的イメージをかきたてるとしてもてはやされている。

そのような流行に過度に振り回されることが無いように、かといって全く無頓着でもないように心がけたいと思うが、確かにメガネは知的な感じがする。それは勉強すると目が悪くなるというイメージから来ているのだろうか、とにかくメガネは賢く見えることがある。特に、我が家族で人気の高い刑事ドラマ『相棒』の杉下右京役の水谷豊が知的すぎる。自分とは年齢が倍ほどに違うので、あれをそのまま輸入することは出来ないが、何とかして賢いメガネを手に入れたいと望む次第だ。

かといって、自分にメガネが似合うかどうかは別問題だ。欧米人に触発されて、本来は短足ずん胴であるはずの日本人がスキニージーンズなる細身のパンツをはき始める時代。格好良いという視点のほかに、果たして本当に自分に似合うのか、分相応なのかということを考えなければ恥ずかしい思いをする。もちろん、はけることなら上等の細身のすらっとしたパンツをはいてみたいものだ。しかし、足の太い自分が無理してそれをはけば、それはもはや自主的公開処刑となる。

メガネもまた然り。自分に似合うのか、購入前にしっかりと検討しなければならない。今では安ければ5000円でメガネ一式をそろえることが出来るようだが、生活必需品には大胆に金を使うのが信条の自分には、メガネが安いという時点で受け入れがたい。10万円のブランドバッグを不必要と感じるのと同じように、過度のケチはよろしくない。となれば、メガネ一式に3〜5万円程度かかってしまうのだ。

5万円ともなれば、この年齢ならば年に一度の大勝負である。言われなくても慎重に選ぶのだが、ここで大きな問題がひとつある。前述の水谷豊のメガネは恐らく伊達メガネである。レンズを通した輪郭とそのままの輪郭が一致するからだ。その場合は、メガネ屋で試した姿がそのままメガネ姿となる。しかし、自分のようにひどく視力の低い人間はそうはならない。レンズ越しの輪郭と実際の輪郭にひどい差が生じてしまう。さらに、展示物には度が入っていないが、レンズを入れればそれも変わってしまう。かといってレンズを入れて試すことは出来ない。

展示物がとても似合うものであったとしても、買って手にしたときにがっかりすることはよくあると思う。目が良い人が果てしなくうらやましく感じられるのはこういうときだ。小学生の頃は目が悪いというのはステータスというバカな不文律があったものだが(中学生の不健康が格好良いという厨二病的発想と同じ)、卒業してしまえばただの不健康、不便で仕方ない。

では、コンタクトをした上で伊達メガネをかければ良いではないかということになるのだが、それは気取っているように思えて嫌なのだ。別に他人からすれば、純粋にメガネをかけていようと、気取って伊達メガネでいようとどうでも良いことである。しかし、自分を納得させることが出来ない。服屋に行くのが怖いように、お洒落に関してある種の怖れを感じているようだ。誰も気にしないから、かけてしまえば良いではないかとなるのだが、理屈では抑えられないところである。

もっと足が細かったら色々と選択の幅も広がるのに・・・もっと目が良かったら・・・あと5センチ背が高かったら・・・そんな願望は尽きないものだ。そんなことを考えていても時間の無駄なので、スクワットのひとつでもやって足細くする努力しろと自分をけしかけて実現するしかない。所詮、願望は願望に過ぎないが、現実を上手く過ごすのは難しい。足よ細くなれ!