個人と全体

最近卒論のために戦争の資料をずっと集めていた。資料などとたいそうなことをいっても要は戦争関連の書籍なのだが、いつか一次資料にも触れないといけない。春休み中に戦史研究室でも行けると良い、いや、近いし来週辺り行ってみよう。卒論で書こうとしている内容に近いといえば近いのだが、ちょっと感じたことをまとめたいと思う。何だか日本語が変だが気にしない。

戦争は良いか悪いか。かなり抽象的な質問だが、これを小学校の授業で訊いたら、ほぼ間違いなく「いけないと思います」という答えが返ってくるだろう。そういった感情論が存在する一方で、合理主義に則った考え方というのもある。もちろん、基本的に誰もが人間の死を避けようとする点では、感情論も合理主義も同じなのだが、お互いがそれを理由として戦争を認めるか否かというのは変わってくる。

国民国家が依然として強い境界線を保っている現在、戦争によって国益を得る部分があるとすれば、戦争に参加すべきだというのを仮に合理主義ということにしよう。この場合の国益というのは直接的なものから間接的なものまでかなり幅広く捉えることができる。例えば、自衛隊はついこの間までイラクに派遣されていたが、これもアメリカとの協調の姿勢を示すという点ではかなり国益に叶った行動だといえるだろう。アメリカに盲従する姿勢は、日本人としては屈辱的であるといえると思うが、日本周辺の国際情勢と日本の法制を考慮すれば仕方ないことではある。そういう意味で、戦争は積極的には認められなくとも、存在止む無しといったところか。

実際の過去の戦争もそうだ。満州事変は当時の日本の不景気を吹き飛ばした。満州という巨大な市場を確保した、あるいは満州の豊富な物資を確保したという点で莫大な国益をもたらした。満州事変がその後の日中戦争アジア・太平洋戦争を招いたわけだから、そう簡単に国益をもたらしたということは出来ないのだが、短期的に見れば間違いなく必要な戦争であったといえるだろう(別に日本軍の行動を肯定するわけではない、むしろ満州事変は誤りである)。

戦争行為は、他国に甚大な被害をもたらす。しかし、戦争屋からすればそれは所詮他国の話であって、大きな問題ではない。勝てると決まっていればなおさらだ。さらに、軍需の急激な増進によって、経済効果はかなり大きなものとなり、成長を促す。戦争で払うべきものが、得るものよりも大きかった場合は、数字の面では戦争は是となる。あるいは、不義を働いた国に対して、どうしても制裁を加えなければならないこともあるだろう。湾岸戦争がその例だ。そう考えると、戦争は一概に否定できるものではない。

国家という単位全体で見てみれば、戦争を否定することは出来ない。それは平和主義を掲げる日本でも同じことであって、自衛隊有事法制はそのためにある。クラウゼウィッツは「戦争は外交の延長だ」と言い放ったが、確かにそれは正しいかもしれない。

しかし、戦争になれば人は死ぬ。その点が感情論と合理主義では解釈が大きく異なるのだ。身近な人が死ねば、誰でも悲しくなる。二度と同じ思いをしたくないと思う。今日は東京大空襲から63年目だが、今日だけでも10万人以上亡くなっており、そしてそれ以上の人々が悲嘆に暮れた。だから、戦争はどうしてもダメだというのが感情論だ。そして、国家全体のためであるならば、個人の犠牲はある程度やむを得ないというのが合理主義だ。この場合の国家というのは国家という抽象概念というよりも、多くの国民の利益と考えて欲しい。よくある例えの、「1000人の命を救うためなら100人の犠牲は仕方ない」というやつだ。

確かに、客観的に見れば合理主義が正しいのだ。少数の犠牲は多数の利益のためにやむを得ないこともある。もちろん、出来る限りその犠牲は避けるべきではあるが、避けられないときは切り捨てなければならない。そうあるべきだと思う。自分が犠牲になることを度外視しているといわれれば、必ずしも否定できないが、自分が犠牲に選ばれてしまったときは諦めるしかないとは考えている。実際その状況にならなければわからないのだが。

しかし、感情論を完全に排除し、合理主義に徹することは正しくはない。