凡人の壁

最近、心が忙しい。特に時間が急激に無くなったと言うわけではないのだが、何となく色々なものに追い詰められているような気がする。これではいけないと思いながらも、何がいけないのかよくわからないのでどうしようもないのである。どうしようもないことを考えても仕方がないわけで、すっきりとしないながらも諦めている。

それ以上に深刻なのが、最近あまりにわからないことが多すぎるということだ。考えても結局結論が出ないことばかりで、自分のバカさ加減がほとほと嫌になる。考えることはいつものように、普通に生きている分には全く必要としないことばかりで、結論が出ないからといって何ら不利益をこうむることはないのだが、気持ちが悪くて仕方がない。もし、実に充実した生活を送っていたとしたら、つまりリア充だったとしたら、そんなことすら考えないと思うのだが、「下手な考え休むに似たり」の逆パターンで考え込んでしまうようだ。

昨日から新しく読み始めた小説がある。↓だ。

沈める滝 (新潮文庫)

沈める滝 (新潮文庫)

潮騒』や『永すぎた春』を読んでいたのだが、それまで読んでいた『金閣寺』『春の雪』(以下3巻)『青の時代』などに比べると軽い文章であり、いまいち満足できなかった。その点、今回の『沈める滝』は重々しい文章で、思考を最大限に活用しないと読み解くことすら出来ない。決して悪文ではなく、単純に普通の人ではありえない考え方が展開されているパターンだ。こういった文章は非常に面白い。

実際には半分も理解できているのか怪しいところであるが、そこがまた楽しくてどうしようもないのである。「そんなこと考えてどうするの?そんなことして意味あるの?」と首を傾げたくなるような行為を連続する主人公に思わず引き込まれる。理性が本能よりも圧倒的優位に立っている彼らの性格には憧れの念を抱く。

まだ『沈める滝』は半分しか読んでいないが、早速難しい問題が浮かび上がってきた。それは「人工的恋愛」の問題だ。人を愛することの出来ない男と同様の女が偶然に出会い、愛することなどないはずだからこそお互いに惹かれあう。数式でマイナスとマイナスをかけるとプラスになるという見事な表現が使用されており、まさにそのような状況なのだが、そこで恋愛を育んでいく。根源は本能的な愛なのかもしれないが、わざわざその愛に理由付けする辺りが自分に混乱と興味を掻き立てさせる。

一瞬相手を見ただけでスピリチュアルな出会いを感じてしまうような類の小説(?)が世の中で評価を受けているようだ。自分はそういった類の軽さを含んだ小説(?)を嫌悪しているが、むしろ正直に書かれているような気がしないでもない。例えば、中高時代の恋愛を思い浮かべてみたときに、誰かを好きになったとして、そこに明確で理性的な理由が存在しただろうか。そう問われれば、少なくとも自分の場合は決してそんなことはなかったと答えざるを得ない。後々、理性的な愛の理由を見つけることが出来る、あるいは見つける必要性に迫られるかもしれないが、最初は単なる本能だったはずだ。

外見的なところであれば「かわいい」とか「格好良い」、内面的なところであれば「優しい」とか「男らしい・女らしい」ということになるだろうか。それをかの類の小説(?)ではスピリチュアルのような意味で使っているようだ。そこに大差はあるまい。要は明確な理由がなければ、何でも良いのである。というよりもそれ以外の方法がない。

だからこそ、自分はこの「人工的恋愛」に興味を持つのかもしれない。自分が知らなかったことに対して知的好奇心を持つのと同様にだ。「愛を合成する」とはどんなことなのだろうか。なんとなくわかるような気がするのだが、さっぱりわからない気もする。ゼロから愛を意識的に作り出すということなのだろうが、しかし「惹かれあった」ということはそこには既に何らかの愛(と呼んでいいのかすらわからないが)があったはずだ。ということはゼロからの愛ではないということになる。

仮に愛を意識的に作り出すことが正解だとすると、それは本能ではない。なんにせよ自分にとってはその「本能ではない」という点が重要なのだ。自然物には自然物なりの美しさが宿るものだが、人工物には計算されつくした、一定の規則に従った形での美が宿る。誰もが自然美は程度の差こそあれ持つものだが、人工美を持つ人は少ない。理屈っぽいといって避けてしまうのだろう。事実、自分も場合によってはあえて人工美を排除することがある。

人工的な愛を作らなければならない状況は現実世界においてもいくつかはあるだろう。まず現在そこに愛が存在してはならない、例えば、一方的に愛情を失ってしまった夫(または妻)がいるとして、しかし子どもの成長を考えたら離婚することは得策ではない。だから結婚生活を続ける必要があるが、そのためには何とか失ってしまった愛を取り戻す必要がある。ただ、自然の状態で愛が回復するということはありえないから、何らかの手段を講じて愛を合成しなければならない。本能ではなく、「子どものために」という極めて理性的な判断によってのみ合成される愛。それは人工的な愛だ。

そういった話は本当に面白いと思う。自分が経験してみたいと思うかどうかは全く別の話だが。特に冷め切った夫婦間で一方的に愛を合成することなど勘弁してもらいたいと心から願う。結婚したのなら、自然な状態で幸せになりたいものだ。

そして、果たして人工的な愛は、本能的な愛に比べてその価値は劣るのだろうか。まだ何とも判断し難いが、少なくとも道徳的・宗教的に判断すれば劣るのだろう。極端に言えば人工的な愛の始まりは自己欺瞞になるのではないかというのがその根拠だ。その点はどうなのだろう。本当に価値は劣るのか。我々は確かに道徳の上に立って生きていかなければならないが、個人間の関係にまで大人数の間で適用されるべき道徳がそこまで強く関与するべきなのか。

全体に対する道徳から価値を否定されることは、個人間の関係ではたいしたことではない。そういったことで悩む必要はない。ただ、個人的に考えても人工的な愛は、本能的な愛に劣るのではないかと思う。そこに明確な理由を示すことが出来ないのが、非常に歯痒い。きっと自分も全体に対する道徳にすっかり染まりきってしまっているのだろう。だから突飛な発想が出来ない。道徳の範囲内でしか動くことが出来ない。

そしてもうひとつの問題は、人工的な愛は本能的な愛のような性質を将来的に持ちうるのかどうかということだ。もしかしたら、それは全く同質のものになるのかもしれない。きっかけが理性であり、理性が人工的な愛を産み育て、育った結果本能的な愛になるという可能性は十二分に考えられる。ただ、人工的な愛が本能的な愛に進化するのか、それとも人工的な愛はあくまできっかけであり、人工的な愛とは別物として新しく本能的な愛が芽生えるのかはわからないし、本能的な愛が生まれてきた時点でそんなことはもう闇の中に消え去るのだろう。恐らく、後者だとは思うのだが。