早稲田〜飯田橋散歩

自主休講の欲望との戦いに何とか討ち勝った自分は、7限に出席しました。一旦家に戻ってから再度大学に向かうというのは実に面倒なことでして、度々休みにしてしまうことがあります。もう休めない限界まで休んでしまったと思っていた今日の教育心理学、何と自主休講した先週の授業が大雨で休講とかで、まだ一回休めることが判明しました。助かった!ありがとう神様。

9時過ぎに授業が終わって、家に帰ろうと思ったのですが、何だかとぼとぼと散歩したくなったので、電車を使わずに帰ってきました。定期があるのに無駄といえば無駄なのですが、それなりに涼しくて気持ちの良い夜だったので、たまには良いかと思いました。

といっても、別に何があるわけでもない、風流なわけでもない単なる車道を歩いて来たに過ぎず、これといったこともありませんでした。ただ、それだけ流れる音楽に耳を傾けることが出来たというのは収穫でした。

最後の授業が終わったという、一種の哀しさというものがあります。感覚的にはマリッジブルーとやらに近いような・・・授業が終わって嬉しいはずなのに、何だかどこかさみしい気がする。もちろん、追加の授業なんてゴメンです。ただ、教室を出ると外が真っ暗で、キャンパスにも人がまばらな様子は気分を良い感じに沈ませます。

そんな沈み具合で散歩しながら聴いていたのが、小田和正の新曲でした。何かのドラマの主題歌に使われていたような気がしますが、『ダイジョウブ』という歌。小田和正の曲全体に言えることですが、哀しさやさみしさが良い感じに身にしみてくる。決して歌詞は暗くないのだけれど、曲調だとか歌声が何かもの悲しい感じが・・・でも何だか癒される感じも。

小田和正の曲に合わせてムービーメーカーで写真を流すと、どんなダメな写真でも素晴らしく見えてくるという不思議な公式があります。やったことのない人は一度やってみてください。限りなくバカな写真でもきっと涙してみることが出来るでしょう。ちなみに清水は一時期これにはまって、夜中までやっていたことがあります。バカ一直線です。

その笑顔はどんな哀しみにも決して負けたりはしないから。

励ましてもらっているんでしょうが、あんまり元気は出なかったり・・・でも安心できるような不思議な感覚。これはきっと自分特有の現象なのでしょう。でもこういう人間がいたら良いですね。何でもかんでも元気を出させてくれる存在もありがたいけれど、いつでも帰れる場所のような存在。そういう人間になれたら良いなと思うのですが、無理だなぁ。。。

カラカラに晴れた日は元気になるけれど、しとしとと静かに降る雨は心落ち着く。晴耕雨読といったようなものでしょうか。今、自分が求めているのは、安心できるところかもしれない。もともと依存体質が強いほうですから、自分ひとりで生きていくなんて出来やしないのです。5人家族で育ったせいかもしれません。当時は鍵っ子に憧れたものですが、今思えば実に幸せな子ども時代だったのかも。

今、飯田橋で共同生活(ルームシェアなんてお洒落な言葉は似合いません)をしているわけですが、それでよかったと思うことも多々あります。一人暮らしなんてとても無理だ。例え清水であったとしても誰かがいるということはそれだけで少しは安心できるものです。まぁそれにしては勝手に部屋を散らかして行ったり、洗濯したりと割に合わないことも多いですが。

依存しない人間になろう、自我を持とう、強い人間になりたい。そういう風に言われ、教えられ、自ら望んで育ってきたと思っていたけれど、全然なれていないようです。依存体質の弱い人間になりました。でも、考えてみればそれは決して悪ではないのです。弱いこと自体は悪いことじゃない。完全に頼り切ってしまうのは悪いことですが・・・まぁプラスマイナスゼロといったところでしょうか。

今ではそれでも良いかなと思うようになりました。決して向上心を失ったわけではありません。でも理想の人間像というものは変わったかもしれません。口先では否定しつつも、今までは誰にも頼らない強い人間を望んでいたと思います。果たしてそれは本当の意味での強い人間なのか、そう疑問に思います。

頼らないというのは、もしかして頼ることを怖れているだけじゃないか。頼ることの何が悪いのだろう、そりゃもちろん依存して勝手に相手に期待することはダメです。でも必要なときに相手の力を求めることは、相手を認めることであり、負けじゃない。自分の力を精一杯使っても出来ないことなどたくさんあるのだから、頼るのは当たり前。自分を認めてもらうには、相手を認めなければなりません。

この世で頼れるのは自分だけ・・・なんて誇らしげにいっていても、それは単に他人の力を信じられないだけで、強さじゃない。そういうことに、ようやく気付いてきました。いまさらだなぁ・・・

なんというか、今までずっと表面的な強さばかり追い求めてきたと思います。例えるなら、喧嘩が強い人間に憧れて、心の強さなんて全く気にかけていなかったように。要するに中二病から脱却できていなかっただけでしょう。物事を受け入れる強さなくして、そこから発展した強さを手に入れることは出来ません。怖いものは怖い、苦手なものは苦手、そこを認識してからどうするか。別に椎茸を食べられる人間が、食べられない人間よりも強いなんてことを言っているわけではありませんが。

受け入れること、存在を認知することだけでも大変です。それが出来ないからこそ、今でも戦争はなくならないのであり、喧嘩は絶えないのだと思います。

難しい・・・椎茸を食べられないことを受け入れて、そこから何かやることがあるだろうか。嫌いな人を受け入れて、普通に話せるようになることは価値があると思うのですが、嫌いな食べ物は別に無理して努力する必要は無いように思える。。。結局相手が意志持つ存在かどうかということなのか・・・?

まぁ、ちょっと考えたくらいでわかることではないのですが・・・とりあえず安心の人間になりたいと思います。