安倍\(^o^)/オワタ

やっぱり安倍内閣はどうかと思った。ホワイトカラーエグゼンプション制度の導入といい、教育再生会議といい、危なっかしいと思う。

ホワイトカラーエグゼンプションは間違いなく過労死の増加を招くことになるだろう。サービス残業の増加を正当化しかねない。文面として問題はないかもしれないが、それをそのまま使用するとは限らないのだから。上司に「頑張ってくれよ」と言われたのをそのままの意味にとって、そそくさと退社できる人間がどれくらいの割合で居るのだろうか。

そして教育再生会議。これも信用ならないと思う。安倍首相は教育再生会議に対して、「100点だ」という軽々しいコメントを残したが、教育再生会議が何を提案しただろうか。いじめ加害者の出席停止措置、教員免許更新制度、優秀生徒の塾通いの禁止・・・どれもこれもあまり考えのないまま結論を急いだ感じがする。

ホワイトカラーの方はあまり偉そうなことはいえないので、教育再生会議について少し。特に教員免許更新制度の導入に関してだ。

教員免許の更新制度自体は悪いものではないだろう。一度とってしまえばあとは大丈夫というのでは、質が確保されないという意見にも一理はある。しかし、それは医師免許なども同じ話だ。では、どのような目的で教員免許は更新されるのか。それは質の悪い教員の教育現場からの排除及び教員の質の向上を謳っている。

質の悪い教員の現場からの排除は確かに必要といえるかもしれない。しかし、どのような教員が「質が悪い」のだろうか。教員というのは子どもの成長期に関わる職業であるために、一般的な職業とは異なった資質や倫理が求められることが多い。もちろん、授業展開の能力は不可欠だ。

日本には、灘・開成に始まって、様々なレベルの学校が存在する。それはもちろん、公立高校にも言える話だ。進学実績を求めるような学校には授業能力の高い教員が必要とされるだろう。しかし、「荒廃」状態にある学校には、それ以外の問題解決能力を持った教員の方が重宝されるだろう。極端に分けてこのように必要とされる能力が異なるにもかかわらず、簡単に「質」を定義してしまうことは出来ない。

仮に、その問題に触れないように、「質」の定義を非常にレベルの低いものに設定したとしよう。すると、わざわざ更新制にする意味が失われてしまうのである。出席さえしていれば単位が取れる大学の授業のように、形式上研修を受講していれば更新できてしまうようでは、どのような質も改善されないだろう。その定義や内容を議論することなく、簡単に形だけ整えても、財政支出と無駄な労働が増えるだけの話だ。

それであれば、もっと根本的に、教員養成制度を変えるべきではないだろうか。戦前の閉鎖的教員養成制度とまでは行かないまでも、少し門を狭めるだけでかなりの効果があるように感じられる。教育学部でもない限り、教員免許を取得するのは時間的にかなり苦労すると思うが、大量養成を目的としているだけあって、一人ひとりに適切な評価を下すことはもはや不可能になっている。それこそ、適当に出席して、図書館で調べてレポートを提出すればいいのだから。

「教員免許取っとけばいざという時に使えるからなー」という気持ちで教職課程を取っている人もたくさん居るだろう。本気の側からすれば迷惑甚だしいのだが、これは仕方のないことだろう。自分もどこかで同じことをしていたことはあるはずだ。滑り止め受験も、本命にしている人から見れば略奪者に見えるのと同じように。

教員の質に求められるのは、まず第一に熱意だと思う。これは決して教員に限定された話ではないが、どのような職業であれ、質の高い人間というものはその職業に対して非常なる熱意を抱いているものだ。その目的は何かはわからないが、少なくとも熱意なくして質の確保はありえない。そういった意味で、保険のように教職課程を取っている人は、良くはないだろう。

では、それをどのように見分けるのか。見分ける方法を考えなくてはならない。単純なところで、教育実習期間の大幅延長が挙げられるだろう。現行の制度では、高校の教員免許取得には2週間の教育実習が、中学では3週間の教育実習が義務付けられている。これを、ヨーロッパの教員養成制度に習って半年間に延長したらどうなるだろうか。

確かに、学生にとっては大いなる負担になるだろう。しかし、長い目で見れば、それは確実に得がたい経験となり、初任からある程度は慣れて行動するようになる。更に、半年の教育実習は中途半端な気持ちの教員志望者をふるいにかけることになる。教員用のインターンと考えればいいのである。本気でやりたい学生は、今でも学校に補助教員のようなものに応募して実行している。

そのようにして熱意を持ち、長期の研修に耐えてきた教員は質が高いと言えるだろう。教育原理はいじめを救うことは出来ないが、研修で生徒と触れ合った教員は強くなる。あまりに現行制度は形式主義的で、現実に即しているとは思えない。

なぜ教育再生会議はその点に触れないのかが実に不思議である。もし仮に、大学側の組織改変に遠慮して発言していないのであれば、存在意義は認められないし、議題にすら上らないのであれば、それこそ教育現場を知らない「有識者」にるよ机上の空論に終わることになるだろう。ホワイトカラーエグゼンプションを無駄にアメリカに見習っているように、教育実習の期間だけでもヨーロッパに目を向けたらどうなのか。

「優秀な生徒の塾の禁止」という実現不可能な理論を平然と唱える座長を中心としていて、まともな議論が出来ているとは思えないが、それを手放しで評価する安倍内閣は非常に危険だといわざるを得ない。参院選という目先の利益に目がくらんで、「美しい国」の建設を忘れているのではないか。

教育が閉鎖的であることはこれまで十分に批判されてきた。そしてそれが弊害となったこともたくさんあったと思う。一連のいじめ自殺によって露わになった教育委員会や教職員組合の腐敗や責任転嫁は教育界の専門という名の閉鎖性が引き起こしたことだろう。かといって、教育は現場を経験していないとわからないというのも事実である。教育現場を経験していない企業経営者を外部から呼べば解決するような単純な問題ではないことくらい、現場を踏んだ人ならばわかるだろう。

教育版のオンブズマン制度を導入するのも一手だ。教育は専門分野なのだから、専門に任せながらも、放任はしない。教員側は説明責任を果たし、外部の意見を聴く必要もある。ただ、それを聴いて改革を実行するのは現場担当者だ。それを譲るわけにはいかない。

でも、こんな主張をしたところで、何も変わらない。教員免許は更新制になるだろうし、教員養成制度も大きくは変わらないだろう。でも、教員志望者として、いつかはこの現状に手をつけたいと思う。現場からの意見を行政に反映させることが、教育の再生へと繋がっていくからだ。これからは、自分で考えて意見を持ち、行動していく必要がある。