冬休み中にレポートって酷じゃない?

よく考えたら、冬休みの間には大学の図書館は開いてないんですよね。文系の学生がレポートを書くために図書館を利用しないなんてことはありえないのです。まぁ本を買うという手段もあるのですが、わざわざ専門外の科目のために高いお金を払って本を買う気を持っている人はあまりいないでしょう。となると、冬休み中に出されたレポートをまともに完成させるのは無理じゃないかと思うわけです。正月だし。正月から勉強なんてやってられるか!

というわけで、追い込まれているにも関わらず、だらだらとmixiを見ていたら、青年海外協力隊に参加している人が足跡をつけていた。あまり細かく見なかったので、何歳で何をやっているのかはわからなかったけれど、でも何か引っかかるものがあった。

大学に入って早2年。一体何をしてきたというのだろう。授業には比較的出席しているし、単位もいくつかは落としつつも卒業には差し障りない。このまま順調に行けば、大学を無事卒業し、大学院に進むなり、就職するなりして、無難な人生を歩んでいくことになるだろう。

それはとても幸せなことだ。無難な人生というと聞こえが悪いかもしれないが、衣食住に困ることもなく、生きがいをもって仕事を出来ることのどこに不幸があるだろうか。それを嘆く必要はどこにもないし、そのつもりもない。

でも、今はどうだろうか。大学に何をしに行っているのかと言えば最終学歴の取得というのが最たる理由になるだろう。実にくだらないと思いながらも、それは決して人生に欠くことは出来ないのだから馬鹿には出来ないし、必須条件だ。だからどれほど人間として得るものがなくても、大学には行かなくてはならない。

下らない下らないといいつつも、大学では様々なことを知ることが出来た。歴史も然り、地理も然り、教育も然りだ。まぁその知識が大学でなくては得られないものかというとそれは疑問であるが、それはまぁいいだろう。そのほかにもたくさん知ることもあった。vipからもw。時々vipにも真面目な情報が書いてあることがある。

人間は知識を求める生き物だ。知るということに非常な快感を覚える。それが自分を歴史に引き込んだ最大の理由になるだろう。

陽明学には「知行合一」という言葉がある。知るということと行うということは同一のものであり、知っているだけで行わないのではその知識は意味がない。行動を伴ってこその知識なのだ。ということだ。大塩平八郎が叛乱を起こしたのは、陽明学が大きな理由になるだろう。

じゃあ、自分はどうだろうか。知行合一なんて出来ていない。全く出来ていない。何も出来ていない。

最近読んだ遠藤周作の小説『沈黙』の宣教師も、山崎豊子の『白い巨頭』の里見も、目の前の惨劇を知り、それを助けるために動いた。宣教師は、拷問される日本人キリシタンを救うために棄教し、里見は目の前の癌患者を助けるために、臨床へと移った。小説と現実を一緒にするわけにはいかないが、考えることはいくらでも出来る。

世界には、飢えで苦しんでいる人がたくさんいることは、日本人ならばもう十分承知の上だろう。飢饉、伝染病、内戦、宗教対立、伝統・・・様々な出来事で毎日死んでいく人がいる。我々日本人からすれば、それは遠い世界の出来事に過ぎない。

人間は一回しか生きることは出来ない。だから、教師になりながら警察官になることは出来ないし、医者をしながら船乗りに成ることは出来ない。これまで何度もそのことが悔しいと思ってきたけれども、もうどうしようもないことなのだ。

勉強したくても出来ない人がいる。食べたくても食べられない人がいる。戦いたくなくても戦場に駆り出される人がいる。そして、その存在を知っている自分がいる。

でも何もしていない。何も出来ないのではなくて、何もしていない。月3000円からの国際協力というのもあるが、それすらしていない。それで本当にいいのだろうか、と思う。かといって動く可能性はとても低い。

教師になって、しかも自分の担当は社会科にしたいから、現在の国際社会の惨状を生徒に伝えるというのも、間接的ではあるが協力といえるだろう。40年以上働いて、何人か国連職員やJICAに協力する人も出てくるかもしれない。それも悪いことではないと思う。

でも、あまりに時間がかかる。それまでに数えられないほどの人が困っているのを助けることは出来ないし、もしかしたら全く出来ないかもしれない。気まぐれの使命感ではあるものの、誰もが一度くらいは疑問に抱いたことがあると思う。

続く・・・かもしれない。