甲子園にみる日本人像

甲子園、全国の高校球児が一度は夢見る場所である。毎年毎年、暑い季節に熱い闘いが繰り広げられ、人々に熱狂と感動を与えてくれる。そこは汚れのない場所であり、純粋な気持ちで闘っている。

プロでは考えられないほどにピッチャーは連投が続き、日程は立て込んでいる。その状況を戦い抜いていくというのも、プレーの技術だけではなく、勝つのに必要な条件である。前に進むたびに身体は限界に近付き、精神は緊張を増していく。

そこには高校生らしい美しさや純粋さを感じることが出来るが、その反面、選手達の身体に悪いというのはスポーツ経験者ならば自ずと知れたことだと思う。だからこそ、プロの試合というものは日程が何日間か空いているのである。プロ選手は身体が資本、それを壊してしまっては活躍することが出来ないどころか、生きていくことすら危うくなってしまう。

甲子園に進んでくるような選手達の多くは、プロを夢見ていることだろう。特に投手には今回の早実の斉藤投手、駒大の田中投手、過去で言えば横浜の松坂、作新の江川などなどのように圧倒的に活躍するチャンスがめぐってきている。素人目には投手一人で勝ち抜けるようにすら見える。本当のところはどうなのかはわからないけど・・・というか違うのだろうけど。

そのような大活躍する投手が、甲子園大会で連投に継ぐ連投というのは、肩に良いわけがない。ある程度身体が出来てきているのだからリトルリーグのように登板制限がないのだろうけれど、長期的な視野で見れば、やらないほうが良い。ましてやプロになってからも活躍したいのならば、『大きく振りかぶって』のキャラクター(名前なんだっけ…?)みたいに「毎試合絶対80球まで」と言った感じに調節した方が良い。

しかし、そんな投手は見当たらない。余程の強豪校で、何人もエース級の投手がいるのならば、もちろんそんな無茶はさせないだろうが、そんな学校ばかりではない。強い地域では良い選手の取り合い合戦となり、全ての良い選手が一校に集まるなんてことがないからだろう。

明らかに良くないとわかっているのに、何で投手はマウンドに上がるのだろう。野球大国のアメリカでは、そんなことは全然ないというのに(by id:realization)。

それは、日本人の国民性にあるのだと思う。一時の栄光のために己の全てを捧げる。あるいは、組織のために己の全力を尽くす。「滅私奉公」とは今では戦前の悪のことわざの代表格のようなイメージがついているような気がするが、まさにそれが当てはまるのだろう。このような性質が日本人には多分に備わっていると思う。

忠臣蔵」では、主家の仇敵である吉良上野介を討つために、忠臣四七志が己の命を捨ててまで行動を起こした。江戸幕府内でも「忠臣蔵」の擁護論が出たほどに、日本人は組織・主人への「忠義」というものを美徳化する。

太平洋戦争にも、特攻隊をはじめとして、そのような例が山ほど見られる。今では悲劇とされるが、当時は「爆弾三勇士」などと賞賛された。戦争の勝利のために己を捨てる。

最近の例では、高度経済成長期のモウレツサラリーマンにも同じことが見て取れるだろう。家庭よりも、自分よりも会社の利益を優先する。会社のために働くことが生きがいになる。そしてそれが美徳とされた時代でもあった。その反面、過労死などが社会問題となったが、それでも人々は働き続けた。当時は、今のように転職を繰り返したり、ヘッドハンティングなどはあまりメジャーではなかった。つまり一社に自分の忠義を尽くしていたということになり、その見返りとして終身雇用や年功序列という日本的な制度があった。ここには、「御恩・奉公」の関係も観られる。

今では、外資系の進出や経済の変化により、日本的制度や古来の忠義というものの価値が認められにくくなっている。「自分の夢」の実現が最大目標とされ、所属組織はその実現のための手段に過ぎなくなった。自己実現個人主義が叫ばれるのも同じことだ。個人主義が一般化しているのである。

しかし、伝統的な高校野球には、まだまだ根強く「忠義」の心が残っているのではないかと思う。そして日本人の心の奥底にもまだまだ「忠義」を美徳とする気持ちが残っている。

だからこそ、投手は無意識的に母校の勝利のために肩を消費する人が多く、そのような状況に日本人は感動するのである。むしろ逆に、全国から良い選手を集めに集め、ローテーションで圧倒的に勝って行ったとしたら、それに反感を覚える人も多いのではないだろうか。『メジャー』の海堂高校よりも主人公を応援したくなるのは、そして『スラムダンク』で怪我をしても強硬出場する桜木に感動を覚えるのも、日本人の性質によるものだろう。刑事ドラマで殉職が多いのも同じことではないか。

映画『海猿』第二弾で、日本人にとっては最大の感動シーンである場面が、アメリカ人には爆笑シーンであったという。自分は映画を観ていないからはっきりと断言することは出来ないが、どうやらそのシーンは、主人公が死んでしまうような危機的場面で、携帯を使って恋人にプロポーズをするというようなものらしい。

日本人が感動するのは、無理やり定義すれば、愛への「忠義」に感動するのに対し、アメリカ人はまず生きるための行動を冷静に取るべきだという合理主義的な心理が働くのだろう。

だいぶ本筋から逸れてしまった気がするが、このように、様々な場面で、日本人にどのような血が流れているのかということがわかると思う。こんな風に分析的に物事を見てしまうと、その楽しさを味わうことが出来ないかもしれない。そういった意味ではとても無駄じゃないか・・・とは思うが、どうにもならないのがこの自分の性格でもある。どうにかならないかな・・・