忙しいってどういうこと?

1週間前に日記を辞めようと言ったばかりですが、今日は多少の時間的余裕があるのと、新学年生活が始まってからしばらくたってペースがつかめてきたので、心理的余裕も出てきました。「いやいや、意志弱いな!」と思う方もいらっしゃると思いますが、まぁそういったところは気にせずに、書きたいときに書いていこうと思います。この一週間で気付いたのは自分は文章書くのが、というよりも文章で記録することが好きなんだなということ。正当な欲求には応えてあげようということで・・・

さて、実に忙しい生活を送っている。朝の駅員のバイトもあるし、授業は教職の関係で夜まである日が多いし、授業が少ない日はバイトがある。まともに休めるのは日曜日だけだ。かといってその日曜日も勉強と塾講の予習と運動と遊びで結構時間はない。ただ今日は大変申し訳ないことに、寝坊で廣瀬との約束をフイにしてしまった関係で、図らずして若干の余裕が出来た。いや、本当にごめんなさい。。。

高校生の時の自分は、忙しい生活に憧れていた。それは、忙しいことが充実したことだと思っていたから。それは場合によっては間違いではないだろう。実際、自分の高校生活は友達に恵まれ、部活を頑張り(勝てなかったけど、一生の思い出だ)、それなりに勉強もした。休み時間に友達とのコミュニケーションが不足することはあまりなかったし、授業は(自分的には)真面目に受けていたし、放課後や休日はだいたい部活だった。偶然にも良い方向で忙しかったのだ。だから、受験が終わった後の自分は、何かが欠けた感じがして、非常に不満だったと思う。何だかんだで辛かったものの、受験は自分にとってプラスになるものだったし、一生懸命勉強することは好きだった。

それが大学に入学して激変する。高校と大学の壁があった。まず中高時代を捧げたと言っても良い「部活」がない。だから放課後は退屈だ。と思ってサークルに入った。フットサルのサークルだ。ちゃんと厳しいところで、部活みたいなノリだった。だけどそれは部活じゃない。定期的に公式な大会があって、それに向かってチームが一丸になって一生懸命練習する。それが部活の醍醐味なはずだ。サークルはそれがない。もちろん、地域の大会などはあるけど、何かが違った。燃えられなかったということだ。燃えようとして、夜に近くの公園で練習もした。これは高校時代にはなかったことだ。

何が違ったのか。同じようなスポーツ(自分としては全然違うのだけれど、足を使うといった意味で)をしているにも関わらず。それは具体的な目標がないからだ。「上手くなりたい」とか「強くなりたい」といった漠然とした目標はある。でも中学時代の「支部大会に出場する」とか「青学に勝つ」とか、あるいは高校時代の「一回戦を突破する」と言ったような具体的な目標でないと、人間はなかなか努力を続けることは難しいと思う。

だから自分はサークルを辞めた。たった半年のことだった。周りには「練習が朝早かったから」と言ったが、本当の理由は燃えることが出来なかったからだ。朝早かったのも理由の一つだけれど・・・

他には授業だ。自分は大学に入学したら、バリバリに勉強して、日本史の学生の権威になりたいと思っていた。ところでその心意気は現在もあまり変わっていない。だが、一文は一年次には専門的な勉強ができない制度になっている。自分の場合は日本史を学びに来たのに、受けられた授業はつまらない日本史の授業が週に1つだけ。それも自調自考論文の発表レベルだ。こんなことを学びに大学に来ているんじゃない。その他の授業は教職のため、卒業のために、つまり単位のために取っていた授業がほとんどだった。その中にはいくつか面白い授業もあったのだが、半期が過ぎると終わってしまった。朝鮮語を頑張ったが、結局は単なる趣味のようなものだった。将来に向けたものかといわれればそうではない。

そして、理系の学生と違って、文系の学生は時間を持て余す。一年次から公認会計士や国家資格を目指して猛勉強して、充実した学生生活を送っている人もいるのだが(自分の周りにもたくさんいる)、自分の場合は教員免許だ。どんなに頑張っても、4年はかかるし、頑張りようにも限界がある(授業の分しかやることがない)。だから、自分は時間を悪い意味で持て余した。

でも、時間は無限ではない。だから少しでも将来の糧になるようにと、塾講師のバイトを始めた。本当は大学受験に関わりたかったが、そうはならなかった。小中学生の講師だ。それでも今までに比べたら格段に良い。将来のためになるし、何と言っても楽しいからだ。つらいこともたくさんある。予習の時間の給料はないから、割が良いとは言えないし、代講だって中々立てて良いものではない(と思っている)。

バイトを始めたのは遅かったが、一週間に3日くらいは入れた。だけど時間は余った。それを愚かな自分は有効活用できなかった。一年次後半にはビジネス系(というほど大げさなものではないが)のことに関われたので、有意義だったといえるが、それまでは、自分で愚かだとわかっていながらも変えることは出来なかった。それでいて、浪人して頑張っていた清水に言ってみれば嫉妬に近い感情を抱いたこともあった。自分の目標のために一心不乱に頑張っている清水に憧れた。

そうこうしているうちに、終わってみればあっという間だったが、一年次は終わった。そして屑のような春休みを過ごし(でも青春旅行だけは最高に楽しかった)、二年次がスタートした。

受験が終わった春休みと、一年次に反省したことから、二年次は忙しいようにした。卒業単位にならない教職を22単位分とり、全てあわせれば60単位分申請し、それが通った。毎日3コマほど授業があり(それでも理系に比べて楽な方だろうが)、その後はバイト、そして朝もバイト、それにサークルもある。家で夕飯を食べることが出来るのは火曜日と日曜日くらいだ。それも理由は娯楽ではない。昔の自分からすれば、理想的な「忙しい」生活が成立した。

だが、結局それは勘違いだった。大切なものを見失っていた。自分のような忙しさは、結局時間・予定に支配されているに過ぎない。皮肉にも、主体性を捨てることを主体的に選んでしまった。自分の日常の主役は、自分自身ではなく、時計である。何と愚かなことだと、今更ながら気がついた。

ナポレオンはこう言い放った。



「愚か者は経験から学ぶ。余は歴史から学ぶ」

と。自分は愚かだ。経験して初めてわかった。忙しいということは、決して充実していることと等式ではないということが。充実とは、主体性を発揮し、明確な目標に向かうことだ。今の自分にはそれがない。だから忙しいだけで、充実していないと感じてしまう。気付いたことは幸いだが、しかし時既に遅し。この予定を変えることは出来ない。

だが、気付いた方が、気付かないよりも対策が打てる。諦めるよりも、あがいた方が良い結果が出る。だから、これからが本番だ。時計が握っている生活を自分の手に取り戻す。時計に支配されるなんて真っ平だ。

その第一歩として、ほんのわずかではあるが、今日は勉強した。二年次までに日本史検定2級を取得するために、高校日本史を復習した。たった1時間ではあるが、大きな進歩だ。一歩目を踏み出すことが、何だかんだで一番難しいことだと思う。今週からは英語の勉強会もある(はずだ)。時計との闘いがはじめられそうな気がする。負けられない。

そして他者任せ気味な自分が、今年サークルを立ち上げた。まだ仲間はたった2人だけれど、必ず理想を達成する。こちらの方にも持てる力を全て投入していきたい。将来のためだ。いくらでも頑張れる。

「将来、将来」と言って現在を楽しまないのは、とても愚かなことだと思う。だが、将来のために努力することが、現在の自分の充実に大きな影響を与えるとも思う。将来は現在からかけ離れたものではないのだから、必ずつながりがある。そのつながりを自分は最大限に活かしたい。そして充実した生活を送りたい。

「充実」とは、自分にとっての永遠の(と言っても死ぬまでの)、究極の理想であり目標だと思う。それの達成は非常に困難ではあるが、達成できたときの喜びの感情は、言葉では言い表すことなどできないほどだ。だったら、頑張ってみるしかないだろう。努力!