偉いなぁ。。。

かれこれ10年以上お世話になっている床屋で、いつも自分の髪を切ってくれる人と喋ってて、感心した。自分は、髪を切るときにする会話がとても苦手なのだが、この人は自分の性格を知っているから無理して会話をしようとしてこないのでとても助かる。それでも今日は、喋った方だった。主な会話は子育てと勉強について。彼は恐らく35歳くらいだと思うが、二児の父である。聞いた話によると、最近は毎日5時半に起きて毎朝1時間半も息子と野球の朝練をしているそうだ。息子もすごいと思うが、それ以上に仕事があるにもかかわらず、毎朝そんなに早く起きて子供の練習に付き合ってあげているという親精神に感動した。自分も幼い頃は、日曜日だけだったが、父に連れられて野球の朝練をやらされたことがある。けれどもそれは、父の自己満足に近いものであって、自分は決して進んでやっていたわけではなかった。自分の父は、幼い頃から社会人になっても野球を続けていたほど野球が好きな人で、きっと息子の自分にも野球の面白さを伝えたかったのだろう。だが、野球上手な父は、自分や弟に対して厳しく練習を課した。といってもボールを遠くに投げるとか、キャッチの練習だったりといって、今考えれば大したことはないのだが、弟に飛距離でも技術でも負けていた自分はいつも怒られていて、泣いていた。その反発があったわけでもないのだろうが、自分はだんだんと野球から離れていき、ついには友達に連れられて地元のサッカーチームに入団した。父は何も言わなかったが、今思えばきっと少し哀しかったのだと思う。ずっと野球一筋だったのだから、子供が大きくなってもキャッチボールをしたいと思うのが普通だろう。自分がサッカーを始めたことで、弟も父も妹も、はたまた母までもサッカーに関することをはじめたことで、我が家はサッカー一家となった。父は自分が入っていたサッカーチームの監督を務めたりしていたけれど、野球チームの監督が出来たらどれだけ楽しかったろうと思う。自分が野球をやらなかった最大の理由は父=野球への恐怖心だったのだろう。父は一生懸命スポーツすることの楽しさを伝えようとしたが、幼い自分にはそれが恐怖にしか映らなかった。ここからわかることは、小さな頃からスポーツにしろ、勉強にしろ、厳しくしつけることは、逆効果だということだ。導入部分から専門的なことをやっても理解できないように、興味を持ち始めたころに、難しかったり厳しいことをやっても、身につかないどころか反発心を抱いてしまう。今考えてみれば、長谷川家の教育方針は「上から与えていく」というものだ。もちろん両親はそんなことを意識していないだろうが、スポーツにしろ受験にしろ、全て親の発言や行動からはじまっている。受験勉強は、有無を言わさずはじめざるを得ない状況にあった。今となっては受験させてくれた両親に感謝しているが、もし自分が受験勉強に失敗して勉強に嫌悪感を抱いてしまったら、どうなっていたか両親は考えていたのだろうか。自分は両親にとってはじめての子供だったから、右も左もわからなかったろうし、さらに両親の時代と育った場所は中学受験なんて考えられもしなかっただろう。だから失敗やそれから起こりうるマイナス行動は想像すらしていなかった、というか出来なかったはずだ。その点は、大いに学ぶべきだろう。将来自分が親になったときに、どのように教育していくべきなのか。上からの教育は最も安全に見えながらも、常に危険と隣りあわせだ、むしろ一番危険な教育方針かもしれない。両親は教育の鏡であり、見本であり、それと同時に反面教師だ。学ぶべきところは大いに学び、改善すべきところはより良い方向に持っていくように気を払わなくてはならない。